現在地は川の北岸小山の頂。 船山氏が、その祖神を祭つたものと考えられ、船山村の産土神であった。 旧地は経ケ峯の東南の中腹にある船山の小集落にあつた。 現在、船山神社の趾は、船山の山村集落より経ケ峯へ少しく登つた地点にあり、隣接する上段に大日堂がある。石碑が残っている。 明治に入つて村社となり、明治41年10月18日安藝郡美里村大字家所1941番地の辰水神社に合祀。 辰水神社の、「ジャンボ干支」は、昭和61年から「ふるさと愛好会」により制作され奉納されている。 |
辰水神社 当船山神社は、平安中期「延喜式」神名帳に記載され国家から特別の待遇を受けた神社であって、経ヶ峰の斜面を開拓されて、古くから栄え、伊勢之国 船山村の産土神として村人崇敬者さらに、諸国民の厚い信仰を受けた。 「今長野峠之麓大船大明神前石似三船並形」とあり、主祭神「鳥之石楠船神」「大山並命三座、火之迦具土神」を配祀さされていた。 明治40年7月10日同地の無格社4社を合祀、明治に入って村社となり 明治41年10月18日 当 辰水神社へ合祀されて厳然と鎮座され、今尚厚い信仰を受けている。 よってここに顕彰の意を表す。 社頭掲示板 |
辰水神社 当社の前身は辰の口神社と称え大字家所(中世は宅所と書いた)字南ノ内に鎮座あり、奉仕する神主は大和国広瀬ノ宮の神主で天文8年(1539)正月領主美川守藤安、同帯刀等と共にこの地に移住したという。領主家所三河守、この社をいたく崇敬し東高倉山に遷座して氏神とし、供米三五石を寄進したが天文の兵乱に一族は滅亡し社殿もことごとく破却して村里も落薄してしまった。時は元亀3年(1572)4月2日のことであった。里人のこのことを嘆いて小祠を築こうとしたが寛永年(1624-43)の頃、藤堂高虎公が伊勢、伊賀の領主となったのを機に社殿復興に力を尽くし一村の氏神としてこれを崇敬した。明治41年9月18日辰水地区内の各神社を合祀する許可を得てよ翌42年4月8日に合祀祭を執行し辰水神社と単称した。こうして合祀した神社に船山神社がある。鳥岩楠舩命を祀る船山神社は美里村ない唯一の延喜式内社であったので昭和63年式内社顕彰碑を建立して往時を偲ぶよすがとした。旧社地の入り口に社号標や石灯籠、手水鉢などが残っており船山地区の人達は今も「式内さん」とよんで親しんでいる。 皇學館大学現代日本社会学部神社検索システム研究会 |
船山神社 船山は布奈夜萬と訓べし、〇祭神田心姫命○船山村に在す、(考証、俚諺)○風土記残欠云、安濃郡船山神社、圭田四十三束六毛田、垂仁天皇43年甲戌11月、依齋宮之夢託、所祭田凝比当轣A(以下虫喰不見) 神社覈録 |