台地の上。集落の中の神社。 社伝によれば、倭姫命が天照大御神を奉戴し、この地に廻歴せられて、4年後さらに他所に遷座せられた後に、その宮跡に御倉板挙神・伊豆能売神二柱を祭つたのが創祀であり、それより産土神として崇敬されて来たとする。 また、「加良比」は「片樋」のなまったものだと言われ、この地は水が不便な地であり、この神社のある場所の片側が急な斜面になっているため、樋を用いて泉の水を引いたことに由来すると言われている。 享保9年(1724)京都北野勅願所清和院権僧正より縁起書の寄進があり、また第111代後西天皇の皇女法鎮寺法親王より額面「片樋宮」その他の寄進があった。 明治2年3月、明治天皇の伊勢進幸に際して、奉幣参向御饌料御献ありという。 明治40年境内神社神明宮など四社を、また明治42年に同稲荷社を、明治44年須賀神社を合祀した。 |
由緒 鎮座地 津市大字藤方字森目355 御祭神 御倉板舉神 伊豆能賣神 天照皇大御神 大山祇神 大物主大神 水波能賣神 宇迦之御魂神 建速須佐之男命 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳尊 天之穂日命 天津日子 根命 活津日子根命 熊野久須毘命 多紀理毘賣命 市寸島比賣命 多岐都比賣命 天兒屋根命 應神天皇 例祭 10月17日 由緒 垂仁天皇御宇皇女倭姫命天照大御神を奉戴し御廻歴の際、此の所に神殿を建築して鎮座し給う。此の宮中水利不便なるにより樋を以て通す故に、片樋宮と称し奉る。四ケ年を経て、大御神様の神託ありて他所に遷座し給う。その宮跡に御倉板舉神 伊豆能賣神二柱を鎮座して、加良比乃神社と称した。 明治40年境内神社神明宮など四社を、また明治42年に同稲荷社を、明治44年須賀神社を合祀した。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
加良比乃神社 延喜式内 御祭神 御倉板挙神・天照皇大神 他17柱 由緒 当社は垂仁天皇の御代皇女倭姫命が天照大御神を奉戴し御廻歴の際、即ち大御神の御神託に準じこのところに神殿を建築して鎮座し給う時宮中水利不便であることから樋を以て通す故に「片樋宮」と称した。四ケ年を経て、又御神託あり他所に遷座し給う。その宮跡に御倉板挙神・伊豆能売神を祀り「加良比乃神社」と称した。以来神威盛なるをもって土地の人々が産土神として崇敬した。 享保9年京都北野勅願所清和院権僧正より縁起書の寄進あり、又後西天皇の皇女法鎮寺法親王より額面片樋宮その他の寄進あり。 明治2年3月明治天皇伊勢御進幸の砌奉幣他参向御饌料御献□あり。昭和25年近隣の火災発火により社殿炎上し直に拝殿(後本殿)を造営し平成8年神宮より御遷宮撤下内宮外幣殿を拝載し正本殿として造営された。 社頭掲示板 |
加良比乃神社 『倭姫命世記』に垂仁天皇の18年から4年間天照大神を祀ったと記される「阿佐加ノ片樋宮」の比定地のひとつとされているのが現在の津市にある加良比乃神社である。 江戸時代、多くの旅人が伊勢を目指した伊勢街道沿いに立つ「式内加良比乃神社」の碑を目印に参道を行くと、深い木立に囲まれた社殿が現れ、境内には「片樋宮」と刻んだ石柱もたてられている。 「加良比」は「片樋」のなまったものだと言われ、この神社のある場所の片側が急な斜面になっているため、樋を用いて泉の水を引いたことに由来すると言われている。 このほか「阿佐加ノ片樋宮」の比定地としては、松阪の阿射加(あざか)神社や雲出川ぞいにある久居市の川併(かわい)神社とする説もある。 明和町HP |
加艮比乃神社 加良此乃は、假字也○祭神士師宿禰祖甘美乾飯根命歟、出雲臣祖廿美韓日狭歟、○藤方村に在す、(考証、俚諺)今壹志郡に属す、(考証云、藤方村、安濃壹志両郡之交也、故古記或為壹志藤方、)○日本紀、崇神天皇60年7月丙申朔己酉、從天将来神宝、蔵于出雲大神宮、是欲見焉、出雲臣之遠祖飯入根、弟廿美韓日挾、云々、而貢上、」同紀、雄略天皇17年3月丁丑朔戊寅、詔土師連等、使進応盛朝夕御膳清器者、於是土師連祖吾笥仍進、伊勢國藤形村、私民部、名曰贄土師部、」姓氏録、(右京神別下)土師宿禰、天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也、 神社覈録 |