安濃川北岸近く、線路の北、市街地にある。境内に三重県神社庁がある。 住古より現在地に鎮座と云われている。 寛永9年に藤堂高次が安濃津城の子之方鎮座として山城国の愛宕神社の分霊を相殿に勧請した。それ以来藤堂家代々の帰依があつた。明治6年3月に村社となつた。 |
由緒 延喜式内比佐豆知神社 御祭神 火之迦具土神 伊邪那美命 天照大神 宇迦之御霊 健速須佐之男命 大山祇命 品陀和気命 五男三女八柱神 天之菩卑能命 天津日子根命 活津日子根命 菅原道眞命 健御名方命 天能忍耳命 多岐理毘賣命 多岐都比賣命 市寸島比賣命 他 御由緒 当神社には、社宝の高麗狛犬に記されてある年号に依りますと、凡そ1300年前から現在の地に御祀りしてあると言う事になります。 当社は延喜式内社で神饌幣帛料供進指定社となって特別の取扱いをされてまいりました。 又、藤堂家代々から御供米等寄附され毎年の大祭には、藩主を始め領内の人民多数の崇敬がありました。 明治四年には、明治天皇神宮参拝の節、勅使御大拝御玉串献上されています。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
比佐豆知神社 龍神灯籠の由来 この灯寵は太平型と言い江戸時代の中頃、国内最艮の御影石によって造られ、福山藩、阿部家江戸屋敷に置かれていたものです。昭和初期この屋敷を譲り受けた故、渡辺龍神氏(弁護士、吟詠家)がこれを愛用していた、この度、当神社村治宮司の切望により渡辺家より寄進され建立された。 槇の木の由来 この槙の木は、樹齢三百年以上と言い伝えられておりまず。江戸時代中頃、海老屋商店が開業された屋敷に植えられてあったもので、この度都市計画復興の為、六代目伊藤治夫氏が寄贈されたものです。 社頭掲示板 |
比佐豆知神社 比佐豆知は假字也〇祭神詳ならず○塔世愛宕山歟、(考証、俚諺) 名島政方云、建部郷塔世の西北に、今愛宕権現と称する是なるべし、比佐は瓠の訓、豆知は野槌、軻遇突智などの豆知にて祇也、神の御名に称へていへり、古事記云、久比奈母知神と見えたる久比奈母知は、汲瓠持の義にて水神也、鎮火祭祝詞云、水神弛川茱埴山姫と見えて、(以上伝の説)比佐豆知は水神にて、愛宕軻遇突智の荒び玉ふをなごめ玉ふにて、是火防神也、然るを世俗愛宕火結神を、火防神にいふは誤れり、それよりして比佐豆知神社を、愛宕と誤る地、火結神を祭るは御心の荒びすさびな玉ひその義なれば、鎮火祭行はるゝ也、考証に、火雷神と云しは非也、と云り、連胤按るに、比佐豆知の名目、実は志られざる事を、強て説なすは宜しからずといへども、かゝることを穿は、近世の人氣にてあれば、さはさてありなん、当社愛宕といふを称するより、都ての愛宕に云へるは甚し、愛宕火神にして火を守るも由縁あることならし、別雷神の雷といぶより、雷電の祈りすれは、除き給ふといふよりは由縁あるべし、又当社を相殿に火神を祭りしことにもあらず、さて其相殿にましゝ神なるか、其名を専らと称せしこともはかりがたし、強て水神なりとも解崩さぬぞ然るべき、考証に、当社また奄芸郡に在しをも、共に火雷といへるは、当社を愛宕といふよりのおしあてなれば、もとより論なし、 類社 当国奄芸郡此佐豆知神社 神社覈録 |