安濃川中流の北岸の台地上にあつて、安濃川流域の平野を見渡し得る所に鎮座している。この地は安濃城の城趾である。 長い山道を登るが、境内は砂がきちんと撒かれている。 牛田村の神館神明を論社とする説もある。 明治の教部省の『特選神名牒』では、 「今按るに傍注考証等の牽強説に依て安濃村にあり、とするは信じがたきが上に村民等狡意を以て細野氏の城跡に新祠を営建し、これを本社に唄るが如きは論ずるにも及ばぬ妄誕なり。猶眞跡を考索すべし。」と手厳しく批判している。 |
安濃城 自然地形を巧みに利用し要塞化された中勢地域最大の城 安濃城跡は、安濃川左岸の標高30mから59mの丘陵上に築城された平山城です。 東西450m、南北350mの範囲に及び、中勢地域最大の城跡です。 国人領主の長野氏一族である細野藤光が弘治年間(1555〜58)に築城し、その息子藤敦が城を拡充したといわれています。 城の構造は、土塁と堀に囲まれた屋敷地(郭)が、阿由太神社の鎮座する郭を主郭とし、南北に二〜三つを一対とした二列の郭が並んでいます。 この構造は、『伊勢一国旧城跡附』に記された内容と合致する点も多いのですが、実際はこれよりも規模も大きく複雑になっています。 また、主郭の南西角には、櫓跡があり、阿由太神社の境内には古井戸二基が残っています。 この城跡は、規模・形態とも中勢では、稀有のもので、自然地形を巧みに利用した要塞でした。 この城は、永禄11年(1568)に織田信長の伊勢侵攻の際に信長の家臣滝川一益に攻められましたが落城せず、織田信長の弟信包を養子に向かい入れ和睦しますが、天正8年(1850)に信包軍により二度目の侵攻により、落城しました。 その後、細野氏の子孫の一人は、江戸時代に京都室町の豪商荒木家となり、荒木光品が故郷の阿由太神社へ大般若経を享保20年(1735)に奉納しました。 阿由太神社の境内となっている曲輪は主郭で、周囲は土塁と空堀で取り囲まれ、北西と南西には虎口が設けられています。 主郭の西には、フェンスと空堀で囲まれた櫓台跡があります。 主郭の東側には屋敷地だったのでしょうか、現在では雑木林と竹薮になっていますが、土塁に囲まれた数段の曲輪群が残っていました。 http://kmimu.digi2.jp/castle/tokai/anou.html |
阿由太神社 阿由太は假字也〇祭神詳ならず○安濃村に在す、阿野神社と称す、(国史、俚諺) 神社覈録 |