大市神社
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   【延喜式神名帳】大市神社 伊勢国 安濃郡鎮座

   【現社名】大市神社
   【住所】三重県津市岩田6-24
       北緯34度42分35秒,東経136度30分24秒
   【祭神】大市比売命
       (配祀)祖母嶽神 罔象女神 武速須佐之男神 天照大御神 大名牟遅命
       少彦名神 布都御魂神 事代主神 市杵島姫命 宇迦之御魂神 天水分神
       大山祇命 菅原道真
       『神名帳考証』『神名帳考証再考』『神祇志料』大市比売神
       『検録』大市首の祖神

   【例祭】10月21日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】明治15年5月1日郷社

   【関係氏族】大市氏
   【鎮座地】もとは安芸郡村主村(位置不詳)の川辺
        石田川の洪水の時に流失して石田村の河辺
        その後現地へ遷

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「川松明神」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造
       拝殿・社務所

   【境内社】伊奈利社

岩田川の川口に近い南岸にあり、現在は津市街の中に鎮座する。
任那よりの帰化人である大市氏の氏人達がその祖を祭つたものと思われる。
もとは安芸郡村主村(位置不詳)の川辺に祀られていたが、石田川の洪水の時に流失して石田村の河辺の古松にかかったので里人がこれを引上げて鎮祭し川松社と称した。その後現地へ遷という。


由緒

大市神社略記
一、祭神
大市比売命(須佐之男命御后)
一、由緒
鎮座の年代は明らかでないが当社は、元石田川(岩田川)の川辺の松樹の下にあったので川松明神と呼ばれて居ります。
ここに鎮座されたいわれは津市を距る事一里現在の安芸郡村主村が大市村と呼ばれて居た時にその河辺に延喜式内大市神社が石田川の洪水の時に流失して石田村の河辺の古松にかかったので里人が之を引上げて鎮祭し川松社と云った。神威が著明なので石田村の産土神と崇敬される様になり河辺に鎮座後度々の水害を免れたので何時の頃からか現在の社地へ遷座して社殿、拝殿等を建設されたのであります。其の際神社の前に人家が無く往来だけであったのでここを宮之前と云い且神名を川松明神と唱え大市神社と通称せられる様になったのであります。
明治15年5月1日郷社に列格許可になり、又明治40年11月8日に(佐伯町鎮座)佐伯社(山中町鎮座)山中社(綿内町鎮座)須貿神社が合祀され、同年12月18日に(柳山町鎮座)津興神社明けて明治41年1月11日に(船頭町鎮座)船積伊奈利神社、同年3月11日に(伊予町鎮座)伊奈利神社がそれぞれ合祀されたのです。尚昭和20年終戦後社格が廃止されました。
一、大市神社年中行事
1月1日 元旦祭、 1月15日 成人の日、 2月3日 節分祭、 2月11日 建国記念日、 3月初午日 初午祭、 3月春分の日、 4月初旬 祈年祭、 5月3日 憲法記念日、 5月5日 こどもの日、 6月30日 大祓、 7月13日 須賀社祭(祇園祭)、 9月15日 敬老の日、 9月秋分の日、 10月9・10日 例祭、 10月21日 例祭(祭典)、 11月3日 文化の日、 11月6日 山神祭、 11月23日 勤労感謝の日、 11月24日 佐伯祭、 12月初旬 新嘗祭、 12月23日 天長祭、 12月31日 除夜祭、 毎月1日、15日、21日は月次祭
境内社 伊奈利社
祭神
宇迦之御魂神 伊邪那岐命 市杵島姫命 大山祇命
由緒
当社は元綿内町清長院境内に鎮座して居りましたが、明治の御一新の際に当社地へ遷座したのです。明治戊辰年旧藩主藤堂高猷公奥羽征討を拝命された時、神官石上清長に鎮撫の祈祷をさせた時、清長丹祈の砌俄に睡眠を催し夢中美麗の神人が現れ稲穂と鏡を持って清長に向い「汝懇祷感す可し依て此の鏡を授く永遠祭祀怠る事勿れ其信するに応じ益々冥護を加うる也」とお告げを受けたと思ったら夢は忽ち覚め、奇異の思いをして神前を見ると丁度夢の中で賜りたる物と同一の鏡が現然として机上にあった。歓喜拝戴してこれを見ると不思議な事に暖気があったので此の事を高猷公に申し上げた所神明の霊威を感銘せられ奥羽鎮静後報賽の為に多額の金子を寄付され神殿等を新築されたのです。彼の霊鏡及初午稲荷社を合併して鎮祭したと云われて居ります。明治41年7月8日境内社合殿社を伊奈利社へ合祀したのであります。例祭日毎年3月初午の日

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




郷社大市神社

祭神 大市比売命 罔象女神 祖母嶽明神 創建年代詳ならず、口碑によれば、当社は元石田川辺松樹の下に在り、故に川松明神と云ふ、按ずるに該所に鎮座ある所以のものは、此地を距る一里除乾の方に大市村あり、其河岸に延喜式内大市神社と云ふあり、徒古洪水の砌右社流失して石田川岸の古松に掛る、里人引上げ之を鎮祭して川松社と號し、神威赫々たるを以て石田村の産土神と崇敬す、然るに其後度々水害あるに由り、何時の頃か現今の社地に遷座す、当時社前は未だ人家なくして唯道路のみなり、依って此所を宮の前と云ひ、且神名を川松明神と唱へて大市神社と称せざるは、全く本社號を辮知せざる故なりと、然るに延喜の式制阿濃郡十座の一に列せる大市神社は、神名帳考証に「大市神社、或云在明法寺村、津西行程二里」と見え、神社覈録には、「大市は於保伊知と訓べし、祭神神大市比売、妙法寺村に在す」とあり、三重縣神名帳には、大市神者、大山祇神之女也」とあるのみなれども。神祇志料には「大市神社、今妙法寺村木羽佐間山にあり、蓋神大市比売命を祭る」と云ひ、尚附記して「村中に今猶大市耕地名あり、又大市山妙法寺あり、大市河あり、古へは本村を大市村と云ひしなりと云へり」とあり併し勢陽雑記に「今の妙法寺村の三町程東に、古大市村と云ふ小里あり、其処の川端に大市の社ありつると也、今は里もなく、其奮蹟に一木あるのみと云へり」とあるに関はらす、伊勢名勝志には、「大市神社は延喜式、安濃郡に見ゆ、今津市岩田町に在りて川松明神と曰ふ」と見え、大日本地名辞書によれば「岩田は即古の安濃津にて、泊舟は岩田江にかゝりしと思はる、大市と曰ふも此地貿易の所なりければならん、或は云大市神は村主村妙法寺にあり、又云、岩田川は片田村より発し、津城の西に至り、安濃川と水脈を通じ、仍東流して海に入る、長四里許、古は岩田江と呼び、津城の南を廻り、一面の沼澤なりしとそ、藤堂家築城以後地勢大に変じたり」、と云ひ、更に隆心法師の「あさぼらけいは田の松は霧こめておぼつかなしやあのの板橋」(夫木集)の歌を援き、安濃板橋は即岩田江の架梁なりしならん」と云へり、是に由りて見れば、当社は初めより現地に存せしものか、又川松明神と号せしは只里俗の便称なるか、尚能く考ふべし、明治15年5月1日郷社に列せらる、其後山中、佐伯、村社津興、同船住伊奈利及び無格社四、境内社四を本社に合祀す。
社殿は神殿、拝殿、手水屋、祭器庫、雑具庫等を具備し、境内坪数499坪(官有地第一種)を有す。

明治神社誌料



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