敏太神社
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   【延喜式神名帳】敏太神社 伊勢国 一志郡鎮座

   【現社名】敏太神社
   【住所】三重県松阪市美濃田町950-1
       北緯34度35分8秒,東経136度29分19秒
   【祭神】誉田別尊 神功皇后 住吉神 鹿島神 枚岡神 香取神
       比売神 熱田神 加茂神 建速須佐之男命 市杵島姫神 蛭児神

   【例祭】10月中旬日曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       明治41年2月20日郷社
       貞観8年8月14日正六位上から從五位下
       貞観18年閏4月7日從五位上に進階
       明治41年2月20日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「敏太八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・社務所・庁舎

   【境内社】

見事な社叢があり、田圃の中の小山をなしている。
江戸時代には「八幡を本社として産神八王子ヲ傍に祀れり。其八幡は建久年中創造の旨」と言われていた。


敏太神社

神紋:左三巴、境内:2,404坪、境外地:685坪、社殿:本殿、拝殿、神楽殿、社務所、 境内社:弁天社(弁財天)、氏子:105戸、美濃田町、崇敬者:若干名
由 緒
 『美濃田神社旧記』によると、里人が樹の枝に光る木像(八幡大菩薩及び神功皇后)を得て、社殿を建てこれを祀ったのが創めで、中世北畠氏以来、関白豊臣秀吉・蒲生氏郷・紀州徳川頼宣らの崇敬が篤かったという。江戸期は「敏太八幡宮」と通称され、現在もその名で知られる。

三重県神社庁



【大仏殿と真楽寺と敏太神社】

明治までは、真楽寺と敏太神壮は同じ境内地にありました。仏と神の御本体は、同一で御本体は、時には仏となり、ある時は、神と姿を変えて私達に救いの手を差し伸べて下さいます。
それゆえ、真楽寺の御本尊薬師如来は、疫病平癒の神、須佐之男命として、又、阿弥陀如来(美濃田大仏)は、五穀豊饒の神誉田別命として敏太神社に祀られています。
大仏殿の屋根の扁額に書かれている「安養殿」とは.極楽浄土の別名で、安らかに心と体を養って、速やかに仏と同じ知徳を得るという意味です。
正面四間、側面三間の二層造り、東大寺の大仏殿を模していると言われています。
蓮華の台座に安置されている阿弥陀如来は、高さ3mあり。地方でこれだけの大きさの金銅仏が祀られているのは、珍しいと言われています。
いにしえより五穀豊穣、病気平癒の祈願所として地域の人々に崇拝され親しまれています。
令和2年5月吉日

社頭掲示板



銅像阿弥陀如来坐像(美濃田大仏)

市指定有形文化財 昭和31年11月13日指定
時代 江戸時代
大仏殿に安置された上品上生の定印を結ぶ、地方には珍しい大仏で、元文2年(1737)ごろの作と考えられる。像の左膝部には「紀州粉河住蜂屋平右衛門正勝」と製作者の名前が陽刻されている。
この大仏は、隣接地の敏太神社の八幡宮の本地仏として真楽寺三世静室素住と地元の中川清左衛門とが協力して造立している。
真楽寺には、造像資金を集めるため、享保14年(1729)より三ヶ年間、市場庄町の参宮街道端へ小屋懸けし、そこに丈六の絵像をかけ、真楽寺の弟子たちが詰めて、往来する旅人から喜捨を得たい旨、関係筋へ願い出たそのときの文書が残っている。
なお、明治初年、廃仏毀釈により大仏は一時真楽寺へ移されたが、明治9年有志が台座を新造して現位置へ大仏をもどしている。
2004年7月31日 松阪市教育委員会

社頭掲示板



弁財天・放生池

【弁財天】 放生池の東の一角に鎮座する弁財天。
この地では『弁天さん』と呼ばれています。
古くから村人に親しまれ、厚く信仰されています。
この神は元来インドの河の神です。
琵琶を奏でる女神で学問や音楽、芸術のオを綬け商売を繁盛させ、蓄財を増やすとされます。
日本では七福神の一柱で、紅一点の女神であります。
昔から、村人は毎月、日を決めて弁天さんに願い事をしています。
【放生池】
敏太神社〔八幡宮)の境内の一角にあるこの池は放生池といいます。
昔、八幡宮を対象として、この様な池が全国的につくられました。
神仏の教えにより「殺生をしてはいけない』とあることから捕らえた魚等をこの池に放ったことが、放生池の由来と言われています。
2015年10月から2018年11月の期間をかけて地元で池の石垣、水源などが整備された。
令和2年5月吉日

社頭掲示板



郷社敏太神社

祭神 誉田別命 氣長足姫命 相殿  天照皇大神 住吉大明神 鹿島大明神 春日大明神 熱田大明神  加茂大明神 蛭児大明神 市杵島姫大明神 淺間大明神 創建年代詳ならすと雖も、延喜の制式の小社に列し、壹志郡十三座の一に数へらる、神名帳考証に、「敏太神社今云風速社、祝詞云、取作牟奥津御年乎八束穂能伊加志穂爾云々、敏與年同訓、古今集歌、登々女阿倍須武倍毛止志登波伊波礼氣利志可毛都礼奈久過流齢可、年字爲敏」と見ゆ、然るに此敏字の音訓に付ては、往年本居宣長翁の考証して当社に奉納せられしものに云く、「摂津国ミヌメの浦と云ふ名所を萬葉集に敏馬の浦と書き、又神名帳に同國八部郡に■売神社と云ふも有り、此■の字もミンの音なるをミヌと云ふ、借り用たること敏の字と同じ、又國名讃岐なども讃字をサヌと云ひ用ひたる是も同じことなり、是らの例を以て敏太もミヌダなること極て明かなり、右敏馬■売、敏の字汝の宇をミヌと云ふに用ひたることいかんと云ふに、惣て上古は美濃國などもミヌの國と唱へたり、濃の字は日本紀などにすべてヌ仮名用ひてノに用ひたることは見えす、此外上古にはノをヌと云へること例多し、野、角、忍、篠、楽、これを中古より以来はノと唱ふれども、上古には皆ヌと云ひしなり、此事古事記日本紀萬葉集などを多く考ふるときは自ら疑ひなきことなり、美濃田村も上古にはミヌと唱へし故に敏太とも民太とも書くなり、さて源の順の時代には早や美濃國をもミノゝ國と唱へ、敏太は美濃田なる事いさゝかも疑ひなきことなるに、神名帳の今の本にトシタと、云ふ暇名を附けたるは大なるひがことにて後人の所爲なり、然るを世の人誰も皆トシタと云ふ暇名附けに迷ひて、ミヌタと訓べきことを知らざる故に、美濃田村の神社なることをも知る人なし、近世外宮の権禰宜度會延維の著せる神名帳考証と云ふ書物に、敏太神社は戸木村の北の風速池の西に在る今風速の社と云ふを敏と速と義理同じき由を証拠に云へれども、甚だ牽強附会の説にして古書の趣にかなはす、是又トシダと云ふ假名附に泥みて、ミノタと訓べきことを知らざるものにして大にひがことなり、決してかの風速社には非す、假令實にトシダにしてもトシと風速とは大いに似付ぬこと、況やトシタは暇名附け誤りなるをや、総て神名帳諸國の神社の假名附の誤れる例甚だ多し、かの延経など古書を考ふること拙くして其誤りも辮へず、妄りに己が憶度に托せて定たるものなる故に、かの考証の中如是き誤りも少なからす、ゆめ々々彼の説に迷ふべきにあらす、古書をよく考る時は美濃田村の神社なること甚だ明白なる者也」と辮妄せらる、神名帳考証再考には、「トシタと訓するは非也、萬葉集に、美努女の浦を敏馬浦と書たるに同じく、ミヌタと訓すべし、ミヌタは深瀦田にして、所祀御年神也」とあり、然るに神社覈録に「敏太は三乃多と訓べし、和名鈔(郷名部)民太(仮字上の如し)祭神詳ならす、日置郷戸木村に在す、今風早社と称す、」といひ、又「連胤云、敏の字を美奴と読むは、萬葉集六に、過敏馬浦時作歌、真十鏡見宿女乃浦者云々、まだ山部宿禰赤人の同時の長歌、三犬女乃浦など見え、摂津国八部郡■売神社も、一本には敏馬とありと」附記し、神祇志料には、「敏太神社、今民太郷戸木村なる風早大明神蓋是也」と云ひ、「按するに本社の東に字ひむ田と云ふあり、ひむ田即敏太の訛音也」と附記せり、併せて後考に備ふ、而して其往古の事蹟は■として今敦ふべきなしと雖も、社傳に云く、中世以降に至り興國元年12月伊勢國司の祖從一位右大臣北畠顕能公(親房の子)は圭田五町歩を寄附し、其子あきやすは圭田壹町歩並黒印を献す、時に天授6年なり、越えて文明4年2月從四位上左近衛中將政郷(五第の国司)は祖先の志を継ぎ圭田貮町歩を増献す、降りて天正4年北畠家滅亡し仁木右京大夫義長の領となるや悉く神領を没せらる、同14年2月くわんはくの朱印を以て永代神供五石二斗六升二合を寄附し貢租を除かる、次いで元和2年口月紀州家よりのぶの黒印にて永代供米五石三斗を奉献し、明治4年に至りて廃せらる、同8年郷社に列せられ、同41年境内末社七社を本社に合祀す。 社殿は一宇にして外に参籠殿、社務所等あり、境内坪数3404坪(官有地第一種)を有す、
宝物は本文中に掲げたる古武將の朱印黒印状及縣居大人の社名考証其他古文書類あり、持有祭事は陰暦正月14日に挙行せる祈年祭にして、其夕粥五合斗を炊ぐ、此時女竹を四五寸の長さに切り、数三本を二つに分ち尚之に一二三の印をつけ藁にて括り、其儘煮込みて之を取上げ解きて神前に供し、其竹筒の中に入りたる粥に由りて、一を早稻二を中稲三を晩稻として豊凶をトすと、尚一は正月廿日獅子頭を戴きて各村に巡廻するを祭事とす。

明治神社誌料



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