雲出川の北500mの平地、街中に鎮座する。叢林は良くめだつ。 この地の旧名を野辺村といい、「野辺惣社」と称されて、久居城下設置以前、当時の村域の氏神であったことが知られる。戦国時代、荒廃に帰していた。 寛永2年(1625)現在の本殿が造立され、また同7年には山城国宇治郡木幡神社より八王子を勧請して配祀された。 |
川併神社 ●由緒のあらまし● 当社は式内社に列せられているが、創祀は詳かではない。当社には寛永2年(1625)3月29日を最古として江戸時代の棟札を25枚伝えるが、その寛永2年のものに「野辺惣社」とみえ、久居城下設置以前、当時の村域の氏神であったことが知られる。戦国時代、荒廃に帰していたが、寛永元年(1624)に工を起し、同二年現在の本殿が造立され、また同7年には山城国宇治郡木幡神社より八王子を勧請して配祀された。また拝殿は元禄4年(1691)の造立で、久居藩主参列のもと盛大な完成式典が斎行された。明治6年には村社に列せられ、同44年には各支郷の神社を合祀して現在に至っている。 5男3女神 天忍穂耳命 天菩卑能命 天津彦根命 活津日子根命 熊野久須毘命 多紀理毘売命 市杵島比売命 多岐都比売命 ほか3柱 平成15年9月28日 野辺惣社 式内 川併神社 由緒書 |
川併神社 当神社は平安時代以前の創祀であり、式内社に列せられていたが、往古は、天照大御神、建速須佐男命、宇迦御魂命を祭神とし神明社として祭祀し奉った。その後本村の旧名を野辺村と称し雲出川を八知川と称した時代より戸木風速池より流れる北□の相川と、此の二流の間に鎮座する神社なれば川併神社と称し祭祀せられてきた。 戦国動乱のため一時は荒廃に帰した処、寛永2年3月現在の本殿が創建せられたのである。 本殿は奈良春日神社の建築を模した建築様式で正面には蟇股の彫刻を施した華美な建築で重要な文化財と思料せられ世に伝えられている春日造神殿である。 寛永7年山城国宇治郡木幡神社よりの御□□りて八王子の神霊を拝受し併せ祭神としてから旧藩の時代には八王子宮とも称え又八柱大神とも称して汎く崇敬をあつめて来たのである。 拝殿は元禄4年の造立であって神木の老松は千年の歴史を秘めている。 例祭は春4月10日及び秋10月10日である。 昭和36年3月29日 川併神社 社頭掲示板 |
川併神社本殿のつくり 川併神社本殿のつくり この神社前本殿は当地方に稀に見る古風な一間社春日造(いっけんしゃかすがつくり)の様式を伝えている。正面虹梁(こうりょう)の上の蟇股(かえるまた)には霊亀が波に浮ぶ文様を刻し、その両端には神獣に擬した象鼻を配するあたり、拝者として自ら襟を正しめる。 元来この様式は切妻造の本殿に向拝(こうはい)を付けたものであるが、両者を繋ぐに虹梁を用い、その上に大瓶束(たいへいつか)を置いて桁をうけ、また、海老虹梁(えびこうりょう)を併用し、背面にも大虹梁上に壮大な彫刻をつけた大瓶束を立て、棟木を受けている。軒裏は総じて賑やかに作られ、円柱上出組(でくみ)の間には風変わりな束(つか)を立て、また、軒支輪(のきしりん)を具えている。素木造(しろきづくり)の森厳さに加えて華麗な彫刻が到る所に用いられ、作者のなみなみならぬ苦心の程が察せられるのである。 (昭和36年3月29日記) 野辺惣社 川併神社。 社頭掲示板 |