波弖神社奥宮
はてじんじゃ 所在地 社名















 【延喜式神名帳】波氐神社 伊勢国 一志郡鎮座

   【現社名】波弖神社奥宮
   【住所】三重県津市一志町波瀬字須弖
       北緯34度34分58秒,東経136度22分7秒
   【祭神】火雷神
   【例祭】
   【社格】
   【由緒】もと矢頭山藏王権現と称した
       明治6年12月に式内波弖神社と改称した
       明治42年8月12日字宮山に遷

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地が旧社地とする

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「矢頭山藏王権現」と称していた
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

谷間の神社。小さな石の祠のみある。境内に矢頭(やず)の大スギがある。境内に杉の巨樹が多く、本殿後方に3本の大杉、門杉状に2本の大杉有る。本殿左前に大きな切り株もある。


由緒

波弖神社の沿革
当社の創立は詳らかではないが申し伝えによれば延暦20年6月伝教大師によって社殿を改造され桓武天皇の御代には既に祀られていたそうである。それから100年後に出来た延喜式神名悵に登載されている。古来八頭山(やずさん)を中心として奉願されていた。殊に伊勢国司の北畠氏は尊信の念深く、神領等の寄進をしてその経営を補助し奉っていた。
八頭山の神を奉祀する神社は古来波瀬村に三社あり、村の中央の字宮山(現在の地)に小八頭神社を本宮と称し、それより6kmを距てた八頭山麓字須弖に祀れる八頭神社を中宮とし、更に山頂に奥宮高岳神社あり、此の3社を八頭山蔵王権現と称していた。
明治6年神佛混淆改正により八頭神社は波弖神社と確定改称せられ神職奉仕することになり同時に神宮寺は廃止された。(明治になるまでは八頭山天徳院神宮寺別当にて諸祭式等執行されていた。)
明治42年に至り当局の神社合祀に基づき中宮及び奥宮等村内32社を小八頭神社に、明治43年社殿その他を新築し合祀して波弖神社と呼ぶようになった。
本殿は昭和30年屋根を葺き替えたが拝殿、幣殿等は長の年月を経て風雨にさらされ老朽化したので昭和62年11月改築し現在に至っている。
昭和15年紀元2600年記念として由緒深い神社昇格の実現すべく努めた結果昭和20年県社に列せられた。しかしながら終戦によりポツダム政令をもって行政管理化よりはずされた。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




矢頭(やず)の大スギ

一志郡一志町大字波瀬 波氐神社奥社
波氐神社の奥社の境内に、樹高が30mを越えるスギが数本そそり立っている。かつては、矢頭山権現とよばれ、修験者が山岳神を開いた。当時は中宮から上は女性は登れなかった。一番大きなこのスギは、ポッコリおへそが付いてるようなユニークな樹形をしている。
◆県天然記念物(昭和28年)  ◆樹高42.5m・胸高周囲9.56m

社頭掲示板



矢頭山

矢頭山は、今から360余年の昔、文武天皇のみ代に、役の小角という人が開いたという霊山である。一片の雲もなく晴れわたった或る日、小角が天の一方を眺めていると、にわかに二本の白羽の矢がとび下りてきて山の峰をかすめ麓の里に降下した。それで小角はこの山を矢頭山と名づけて尊崇し蔵王権現を祀ったと言い伝えでいる。
明冶維新までは、矢頭権現と称し、全山百余町歩に数千本の老杉が茂って、千古の歴史を物語っていた。
仁王峠には関所を設け、立派な楼門もあったという。
「伊勢国司北畠家や、紀州徳川家は代々武運長久祈願所ともせられたが、伺時の頃からか、矢頭神社と呼ぶようになり、享保13年には延喜式内波氐神社として特に殺生禁断の制札を下付された。
明治42年8月には、村社合祀のため、中宮を奥社として保存されることとなった。
由緒あるこの霊山は、高さ723mで南から牛ヶ嶺(南ヶ嶽)不動ヶ嶽、風尾ヶ嶽、御峯、地蔵嶽とそれぞれ峯が寄り合って高く聳えるから中勢は勿論、北勢、南勢からも眺められ漁船帰港の目標ともなっている。
一志町

社頭掲示板



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