雲出川の支流波瀬川の東岸に鎮座する。波瀬小学校の西、安楽寺の南に隣接する。 延暦20年(801)6月伝教大師によって社殿が改造されたという。 矢頭山藏王権現と称し、矢頭山天徳院神宮寺別当が祭祀を司ってきた。 八頭山の神を奉祀する神社は古来波瀬村に三社あり、村の中央の字宮山(現在の地)に小八頭神社を本宮と称し、それより6kmを距てた八頭山麓字須弖に祀る八頭神社を中宮と称し、更に山頂に奥宮高岳神社があり、3社を八頭山蔵王権現と称していた。 明治6年12月神仏分離に際し字須弖に祀る八頭神社を式内波弖神社と改称した。 明治42年8月12日現在地にあった小矢頭神社に合祀し、神社名を波氐神社と称し、字須弖の波弖神社跡を波弖神社奥社として、明治43年社殿その他を新築した。 昭和20年12月15日に県社となつた。 旧地は北緯34度34分58秒,東経136度22分7秒 |
由緒 波弖神社の沿革 当社の創立は詳らかではないが申し伝えによれば延暦20年6月伝教大師によって社殿を改造され桓武天皇の御代には既に祀られていたそうである。それから100年後に出来た延喜式神名悵に登載されている。古来八頭山(やずさん)を中心として奉願されていた。殊に伊勢国司の北畠氏は尊信の念深く、神領等の寄進をしてその経営を補助し奉っていた。 八頭山の神を奉祀する神社は古来波瀬村に三社あり、村の中央の字宮山(現在の地)に小八頭神社を本宮と称し、それより6kmを距てた八頭山麓字須弖に祀れる八頭神社を中宮とし、更に山頂に奥宮高岳神社あり、此の3社を八頭山蔵王権現と称していた。 明治6年神佛混淆改正により八頭神社は波弖神社と確定改称せられ神職奉仕することになり同時に神宮寺は廃止された。(明治になるまでは八頭山天徳院神宮寺別当にて諸祭式等執行されていた。) 明治42年に至り当局の神社合祀に基づき中宮及び奥宮等村内32社を小八頭神社に、明治43年社殿その他を新築し合祀して波弖神社と呼ぶようになった。 本殿は昭和30年屋根を葺き替えたが拝殿、幣殿等は長の年月を経て風雨にさらされ老朽化したので昭和62年11月改築し現在に至っている。 昭和15年紀元2600年記念として由緒深い神社昇格の実現すべく努めた結果昭和20年県社に列せられた。しかしながら終戦によりポツダム政令をもって行政管理化よりはずされた。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
延喜式内波氏神社 当社の主祭神は、火雷神にして今より1186年前の延暦20年6月伝教大師によって社殿を改造されたと有り、矢頭山天徳院波瀬神宮寺別当が祭祀を奉仕してきた。 伊勢の国司北畠家及び紀州徳川家代々の祈願所として祭費を寄献されていた。 明治6年神仏混淆改正により延喜式内波氏神社と確定改称せられ神職が奉仕することになり神宮寺は廃止された。 明治42年に村内33社を宮山に合祀して社名を波氐神社とし、波氐神社跡地を波氐神社奥社と単称することになり、本殿、拝殿、神楽殿、手水舎等を改築された。 社頭掲示板 |
波氐神社 当社の創立は詳らかではないが申し伝えによれば延暦20年6月伝教大師によって社殿を改造され桓武天皇の御代には既に祀られていたそうである。それから100年後に出来た延喜式神名悵に登載されている。古来八頭山(やずさん)を中心として奉願されていた。殊に伊勢国司の北畠氏は尊信の念深く、神領等の寄進をしてその経営を補助し奉っていた。八頭山の神を奉祀する神社は古来波瀬村に三社あり、村の中央の字宮山(現在の地)に小八頭神社を本宮と称し、それより6kmを距てた八頭山麓字須氐に祀れる八頭神社を中宮とし、更に山頂に奥宮高岳神社あり、此の3社を八頭山蔵王権現と称していた。明治6年神佛混淆改正により八頭神社は波・神社と確定改称せられ神職奉仕することになり同時に神宮寺は廃止された。(明治になるまでは八頭山天徳院神宮寺別当にて諸祭式等執行されていた。)明治42年に至り当局の神社合祀に基づき中宮及び奥宮等村内32社を小八頭神社に、明治43年社殿その他を新築し合祀して波氐神社と呼ぶようになった。本殿は昭和30年屋根を葺き替えたが拝殿、幣殿等は長の年月を経て風雨にさらされ老朽化したので昭和62年11月改築し現在に至っている。昭和15年紀元2600年記念として由緒深い神社昇格の実現すべく努めた結果昭和20年県社に列せられた。しかしながら終戦によりポツダム政令をもって行政管理化よりはずされた。 三重県神社庁 |