阿坂山の東麓の傾斜面に鎮座し、そこより伊勢湾に向つて展開する松阪周辺の平野を見渡すことができる眺望の良い所である。 神社の背後を伊勢自動車道が通っている。 『五鈴遺響』に「小阿坂ノ山嶺ニ坐シタ」のを後に「今ノ大阿坂ノ地ニ遷シ崇祀スル」という。 三座のうちの二座が大阿坂・小阿坂の両社として現存し、もう一座は或は「壱志村ノ産神」かと推定してされているが、阿射加神社の三座は同じ場所にあつたものと考える方が自然であろう。 社伝によると、「織田信長阿射加城主大宮入道ト一戦ノ際神殿宝物旧記等不残兵火二罹り灰燼ス。既二北畠滅亡二及、ンデ后神社ヲ再建スト雖是ヲ守ル者ナク、元禄三年庚午年二至リテ奥村要人神主トナリ之ヲ守ル。井関主水享保年中許可ヲ得禁殺生ノ石碑ヲ立」 |
阿射加神社 延喜式 阿射加神社由緒 神明造 村社 阿射加神社 従三位 主祭神 猿田毘古大神 松阪市大阿坂町 境内 四町三反八畝十五歩 山岳 四町一反六畝十五歩 参道 250m 由緒 第11代垂仁天皇18年夏4月、皇女倭姫命が天照大神の神霊を祀る地を探し求める途中阿佐賀の地を訪れ荒ぶる神伊豆速布留大神を大若子命をもちて鎮めさせ阿佐賀山の嶺枡形山に社殿を造り種々の幣物をもたらし祭ったのがこの神社と言われる(神道書、倭姫世記)阿射加神社は平安朝時代から社格の上からも朝廷から破格の崇敬を受け、835(承和2)年従五位下、850(嘉祥3)年従五位上、855(斉衡2)年従四位下、858(貞観元)年従四位上、866(貞観8)年従三位を伊勢国阿耶賀神に授け奉ると昇叙の記が見られ第60代醍醐天皇延長5(890)年延喜式内大社の格に編入され延喜式神名帳に伊勢国阿射加神社三座並名神大なり285座の内となる猿田毘古神座阿耶訶と古事記にも見られる古社である。 伊勢国司北畠満雅應永年中阿坂山に砦を築く時に社地を山より今の地 に遷したと記されている。 享保甲辰(1724)年紀州家より禁殺生の石碑建贈される。 安政丙辰11月(1856)年国主紀伊御代により武運長久領内安全の奉納が寺社奉行によって奉られている。 明治6年3月村社に列せられ同39年12月三重県告示第380号をもって神饌幣帛料供進指定社となる恒例世多米志祭が1月に行われ稲作の作柄を占う粥試が行われる神社の右側には龍天大明神の起源と言われる宮池をもつ由緒ある神社である。 本殿 神明造一殿三座並名神大 掘立柱、高床式、堅魚木、千木(内削) 棟持柱を持つ唯一神明造りである。 垣内末社 六社 攝社 三社 主祭神 猿田毘古大神(伊豆速布留大神、龍天大明神) 底度久御魂 都夫多都御魂 阿和佐久御魂 一殿三座並名神大 猿田毘古大神は天孫降臨の時天ノ八衢に出られ、上は高天原を照らし下は葦原の中国を光し迎になったとある。鼻の長さ七寸、背の丈七尺目の大きさ八寸で鍾のごとくまなこの色赤酸漿である。 神位 第54代仁明天皇 承和2年12月(835)従五位下 第55代文徳天皇 嘉祥3年10月(850)従五位上 第55代文徳天皇 斉衡2年4月(855)従四位下 第56代清和天皇 貞観元年正月(858)従四位上 第56代清和天皇 貞観8年11月(866)従三位 第60代醍醐天皇延長5年(890)式内大神社に編入され延喜式神名帳に伊勢国阿耶賀神社三座並名神大とあり、臨時祭名神祭285座の内となる。 昇叙の記が日本三代実録などの国史に見られる。 社頭掲示板 |
阿射加神社 神紋:不詳 社殿:本殿(神明造)、拝殿、社務所 境内神社:大若子神社(大若子命) 氏子:105戸、大阿坂町 崇敬者:若干名 由 緒 「皇大神宮儀式帳」「倭姫命世紀」には阿佐加の荒ぶる神平定の説話を記し、「倭姫命世紀」ではその神を阿坂山上に社殿を造り祀ったのが当社であり、式内社と伝える。承和2年(835)従五位下、嘉祥3年(850)従五位上、斎衡2年(855)従四位下、貞観元年(859)従四位上に昇叙の記録が国史にみられる。 三重県神社庁 |