阿射加神社
あざかじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】阿射加神社三座(並名神大) 伊勢国 一志郡鎮座

   【現社名】阿射加神社
   【住所】三重県松阪市小阿坂町120
       北緯34度35分27秒,東経136度28分8秒
   【祭神】猿田彦大神
       出口延経『神名帳考証』佐久御魂・都夫多都御魂・底度久御魂
       橋村正身『神名帳考証再考』底度久御魂・都夫多都御魂・阿和佐久御魂
       『三國地志』伊豆速布留神・大國主命・天日別命

   【例祭】10月8日近い日曜日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】承和2年(835)12月従五位下『続日本後紀』
       嘉祥3年(850)10月従五位上『文徳天皇實録』
       斎衡2年(856)正月名神・従四位下
       貞観元年(859)正月27日従四位上『三代実録』
       貞観八年(866)従三位『三代実録』
       康平3年(1060)8月「阿射賀御厨」とある
       延元4年(1339)には大小の二つに分れていた
       明治41年2月20日村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】「上世ハ阿坂山上」にあつたという
        応仁の乱の時北畠氏が「本社ヲ今ノ地ニ遷」した
        永禄年間(1558-70年)に兵火に罹るのを怖れて阿坂山山上から遷座したと伝

   【祭祀対象】
   【祭祀】祭祀は継承されている
   【社殿】本殿大社造
       拝殿・社務所・祭具庫・庁舎・厩舎

   【境内社】大若子神社
   【別当】小寺山西藏寺と呼ぶ別当寺(明治5年無住につき廃寺)

阿坂山の東麓の傾斜面に鎮座し、そこより伊勢湾に向つて展開する松阪周辺の平野を見渡すことができる眺望の良い所である。
「上世ハ阿坂山上」にあつたのが応仁の乱の時北畠氏が「本社ヲ今ノ地ニ遷」したとする。
式内「阿射加神社」は当初阿坂山上に鎮座していたとされ、阿坂山上から山麓への遷座を小阿坂とするか大阿坂とするかによって説が分かれる。
三座のうちの二座が大阿坂・小阿坂の両社として現存し、もう一座は或は「壱志村ノ産神」かと推定してされているが、阿射加神社の三座は同じ場所にあつたものと考える方が自然であろう。
延元4年(1339年)の神宮の神領目録である『給人引付并神領目録』には、これが「大阿射賀御厨」・「小阿射賀御厨」と2分されていることから、両社はその分割に際してそれぞれの御厨に鎮守神として勧請されたものと見ることもできる。


由緒

阿射加神社と猿田彦大神
神代の昔我が伊勢の国をお治めになってゐたのは猿田彦の大神でありました。此の猿田彦の大神が御かくれになったのが阿邪訶(アザカ)の海であります。阿邪訶は阿射加又は浅香とも書き、後世は専ら阿坂の字を用いてゐます。
ところでここに一つの疑問は阿邪訶の海と云ふことであります。人も知る如く今日の松阪市小阿坂町は、伊勢湾の海岸からそ凡二里を距る山寄りになりますが、太古に阿邪訶と申したのはずっと広い地域を籠めて申した者で、大たい一志郡東部の平坦地の総称であったと思われ、具の阿邪訶の親村が今日の阿坂であったと考へられるのであります。阿坂と云ふところは伊勢の国の内で最も古い歴史を有ったところで、既に神代の昔から知られていました。恐らく日本の内でも最も早く開けたところでありませう。
而して我が伊勢の国の内何処が一番肥沃であるかと申し燃すと、それは一国の胴部にあたる一志郡の平野、即ち古への阿邪訶の地であります。猿田彦の大神は恐らく此の阿邪訶を中心として伊勢の国を統治なさってゐたものと思います。
松阪市小阿坂町には阿射加神社と申す古い神社今も昔ながらに御鎮座になって居ますが、此の阿射加神社こそは猿田彦の大神を斎き祀るところの神社であるのであります。古代伊勢の中心である小阿坂町に伊勢の国つ神出あられた猿田彦の大神を奉祀するところの阿射加神社が鎮まり坐ますことは、極めて古い御歴史と、最も深い御由緒とによらなければなりません。
古へは毎年二月の祈念祭と、六月十二月の月次祭と、十一月の新嘗祭とに朝廷の神祇官に於いて、由緒ある神社への班弊が行われ、おほ祈念祭には、諸国の国史庁に於いても班弊が行われました。其の班弊に預かり給ふ神社、即ち官弊社、国弊社の社名を朝廷の方で登録した帳簿がありました。それが即ち醍醐天皇の御代に勅命を以て編纂せしめられた延喜式に載するところの神名帳上下二冊であり、其の神名帳に出て居る神社のことを式内社と申して居りました。また諸国の神社の内で特に朝廷の御崇敬の事実が日本書記以下の勅撰の歴史、所謂六国史に載せられてゐる神社のことを、国史、現在社と云ひ習わして参りました。伊勢松阪市の阿射加神社は式内社であると同時に、また国史現在社でもあったのであります。
式内社は日本全国に亘って沢山有りました。其の総数は三千一百三十二座にも及んで居りまたが、それらは総て大社と小社とに区別されてゐました。我が伊勢の国に於いては、式内社総数二百五十三座の内、大社が十八座で、他の二百三十五座は皆小社でありました。其の大社十八座の内、七座は皇大神社と度会宮即ち豊受大神宮、七座は其の別宮で、残る四座の内の一座が桑名郡の多度神社、三座が松阪市の阿射加神社であったのであります。即ち我が伊勢に於いて、神宮に亜いで尊い神社とは申せば、それは阿射加神社であったのであります。
而して其の御祭神の三座とありますのは、猿田彦の大神がおかくれになる時に現れ給うた三つの御魂、底度久御魂、都夫多都御魂、阿和佐久御魂をお祀りしたものでせう。なほ阿射加神社は式内大社であったばかりでなく朝廷に於いて最も重しとせられた名神の祭にまでも預かって居られるものであります。式内大社にして名神祭に預られることは、とうじの神社としては最高至上の御資格でありました。阿射加神社は実にかくの如き尊い社格を有せらるるところの名社であったのであります。
以上述べましたところの事実は、阿射加神社に対し朝廷に於いて如何に尊崇を尽くされたかを物語るものでありますが、なほ此のことを立証するものとして、仁明天皇の承和二年本社に従五位下の神位を授けられ、尋いで文徳天皇の嘉詳三年には従五位上を司斎二年には従四位下を、清和天皇の貞観元年には従四位上を授けられ、更に同八年従三位に進められた事実を挙げ得るものであります。そもそも本社に対し朝廷がかくの如く崇敬を尽くされた所以のものは何でありませうか。それは申すまでもなく、御祭神として仰ぎまつる猿田彦の大神嚇々たる御神内と洪大無辺なる御神威、御神徳によるものであります。
天孫瓊々杵尊が初めて此の豊葦原の瑞穂の国へ天降り坐した時、其の御途上、天の八衢と云ふところまで御いでになりました。天の八衢とは道が幾条にも分かれてゐる分岐点を意味するものでありまして、天孫は御前途を果たして何れの道に取らせるべきか大いに御迷ひになりました。然るに猿田彦の大神果たして天孫降隣の御事を聞かれて、取り敢闘へず天の八衢までお迎えに上られました。さうして天孫の御進みになるべき御道筋について具さに奉上され、天孫はその猿田彦の大神の御指示のままに、日向の高千穂の峰にお降りになったのであります。若し其の猿田彦の大神がお迎えに上られなかったならば天孫は如何にお困りになったことでせう。或は取るべき道を踏み違え給ふて、とんでもないところへ迷い入られ、終には此の瑞穂の国へ御到着荷なることが出来なかったかも知れません。天孫が御恙なく日向の国に御降隣になることを得させられたのは、全く猿田彦の大神導きの功であったと申し上げなければなりません。
猿田彦の大神は我が伊勢の国の国津神であられます。同時に皇大神宮の御宮地に対しては、地主の神として申し上ぐべき神であります。古来二十年毎に行われる神宮の式年遷宮諸祭中の地鎮祭には、宮処を敷き坐す神を祭りますが、其の神内で最も重要なる位置を占められるところの神猿田彦の大神でありませう。神宮の地主神として御宮地を長へに護り給ふところの猿田彦の大神は、また地祭りの神として日本国民の上に洪大なる神恵を垂れ給府のであります。
このように阿射加神社は猿田彦の大神を、お祀りする神社の中で最も由緒ある神社であります。この猿田彦の大神御事蹟にも明らかなように、道案内の神、つまり地鎮の神であると共に交通安全の神として敬い奉られるわけであります。
松阪市小阿坂町百二十番地
鎮座阿射加神社

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




阿射加神社

阿射加神社は、平安時代初期には県内でも数少ない延喜式内大社格に列せられた古社で、猿田彦命を祭る。
現在境内で、毎年1月14日夜に行われる御火試(おんひだめし)、粥試(かゆだめし)神事及び小阿坂のかんこ踊りが松阪市民俗文化財に指定されている。
この境内のご神木は、杉の大木で全てが対になり五対ほどが社殿に向かって屹立している。
朱色の幟には、七福即生 松阪霊地七福神 寿老神と白抜きされていた。
この写真手前の県道58号線参道入り口右側には、「猿田彦大神」の石碑が立っており、そこから神社に向かってまっすぐ南に延びる参道。 この社叢は、スダジイ、ヤマモガシ、ミミズバイ、サカキ、タブノキなどの常緑照葉樹が繁茂し、伊勢平野丘陵部のかつての自然をうかがい知る貴重な植生として、松阪市の天然記念物にも指定されている。(松阪市教育委員会)

社頭掲示板



阿射加神社社叢

●小阿坂町下山見118−2・120/阿射加神社境内
指定面積:14,474.13u
昭和63年4月26日市指定
 水田等の耕作地に囲まれた阿坂山山麓丘陵の下部に広がる神社林の内1.45haが社叢として天然記念物に指定されている。スダジイ、アマモガシ、ミミズバイ、サカキ、タブノキなどの常緑樹からなる照葉樹林で、樹高15m前後、胸高径1mほどのスダジイが林冠を覆い、一部にヒノキの人工樹が混じるものの、ほぼ自然林に近い状態で保存されている。このような樹林は伊勢平野丘陵部の本来の植物的自然をうかがい知る貴重な植生である。



阿射加神社

神紋:花菱、 境内:5,891坪、 境外地:1,215坪、      
社殿:本殿(大社造・三殿で本殿をなす)、社務所、調舎、馬舎
境内社:大若子神社(大若子命)、氏子:210戸、小阿坂町、崇敬者:若干名       
由 緒
 倭姫命が皇大神の御神霊を奉じ、諸国を巡行せられたとき、安佐賀の山の嶺に荒ぶる神がおり、倭姫命は宇治の五十鈴の川上の宮に行くことが出来なかった。倭姫命はこの荒ぶる神の所業を天皇に申し上げるため伊勢大若子命たち三人を朝廷に遣わされたところ、天皇は大若子命に命じて荒ぶる神を祀るための様々な贈り物を賜えた。大若子命はその贈物をもって荒ぶる神に捧げ、ついに安らかに鎮めることができ、安佐賀に社殿を建て、伊豆速布留神をお祭りするようになった。この社殿が今の阿射加神社で、伊豆速布留神とは猿田彦大神。時は垂仁天皇18年の4月16日のことで、神社創建にかかわった大若子命は、当社の境内社「大若子命神社」に祀られている。
 承和2年(835)従五位下、斉衡2年(855)従四位下、貞観8年(866)従三位を捧げ奉ると国史にみえている。「阿射加神社(並名神大)」とある式内社は当社のことである。

三重県神社庁



阿射加神社 三座 並名神大

阿射加は假字也〇祭神沫佐久御魂、都夫多都御魂、底度久御魏、(考証)○大阿阪村小阿阪村両処に在す、(俚諺)共に今龍天大明神と称す、〇式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、伊勢國阿射加神社三座、〇古事記、(神代段)援田毘古神坐阿邪阿時、爲漁而、於比艮夫貝其手見咋合而、沈溺海塩、故其沈居底之時名、謂底度久御魂、其海水之都夫多都時名、謂都夫多都御魂、其阿和佐久時名、謂阿和佐久御魂、」倭姫世記云、垂仁天皇14年乙巳、遷幸于伊勢國、次市師縣造祖建砦古命爾、汝国名何問賜、白久、害行阿佐賀國白、進神戸并神田、」18年巳酉、遷坐于阿佐賀藤方片樋宮、積年歴四箇年奉齋、是時爾阿佐賀乃禰子爾坐而伊豆速布留神、百往人者、五十人敢死、四十往人者、廿人取死、如此伊豆速布留時爾、倭比売命於朝廷、大若子乎進上而、彼神事乎申之者、種々大御手津物彼神通、屋波志々豆目平奉止、詔遣下給支、于時其神乎阿佐賀乃山嶺社作定而、其神乎夜波志々都米上奉天労祀支、
連胤按るに、大阿坂小阿坂両村に坐す事は、山城国宇治郡許波多神社三座の條にいふを併せ考ふべし、〇古事記伝には、今世阿邪可神社大阿坂村と小阿坂村と、二処にあり、同じ程の森にて、共に古く見え、神殿も各三宇あり、何方か古の本よりの御社ならむ、別まへがたし、小阿坂村なる圓座藥師といふ寺の縁起文に、小阿坂村なる神社は、昔行基僧が勧請せるよし記せり、もし是実ならば、大阿坂なるや、本よりのなるべきと云り、今縁起は執ずといへども、備考のため出し置侍る也、』勢陽俚諺に、山の頂に古の、社跡あり、是伊豆早振神を定祝るなり、応仁の頃國司砦を揚るとて、畏て麓へ替祭ると也、今の大阿坂龍天明神是也、(按るに是亦一説也)麓を藤方谷と云、藤方片樋宮は此所也といへり、
神位 名神
続日本後紀、承和2年12月甲申、奉授阿射賀大神從五位下、此神坐伊勢國壹志郡、」文徳実録、嘉祥3年10月辛亥、授伊勢國阿射賀神從五位上、斉衡2年正月壬寅、以伊勢国阿射賀神、預於名神、同月丙午、伊勢国阿射賀神、加従四位下、三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授伊勢国従四位下阿射加神従四位上、同8年11月4日乙巳、伊勢国従四位上阿射加神授従三位、

神社覈録



伊勢国INDEXへ        TOPページへ


順悠社