香良洲神社
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   【延喜式神名帳】稻葉神社二座 伊勢国 一志郡鎮座

   【現社名】香良洲神社
   【住所】三重県津市香良洲町3675
       北緯34度38分39秒,東経136度32分37秒
   【祭神】稚日女尊 (配祀)御歳神
   【例祭】7月15日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】欽明天皇の御代神戸市生田神社より勧請

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・手水舎・社務所

   【境内社】
   【境内図】 境内図

雲出川の河口にあり、本流と雲出川古川にはさまれた三角地帯に鎭座している。平地の大社であり、香良洲小学校南東に位置する。
古くは「お伊勢詣りをしてお加良須詣らぬは片参宮」といわれた。
主祭神の稚日女命は婦人の守護神だとされ、機織との関係があることから紡績業界からの信仰、神功皇后の軍船を守護し導いたという神話から航海の神・海の守り神としても信仰されている。
「香良洲」の語源は、神功皇后の三韓征討=韓統(からすぶ)からという説や、海が荒れるところから辛洲(からす)となったという説がある。
香良洲神社と境内社・小香良洲社を、式内社稲葉神社二座に比定する説もある。


由緒

稚日女尊は天照大御神の御妹神にあらせられ、第29代欽明天皇の御宇(今よりおよそ1,400年前)、生田の長峡(現在の神戸市生田神社)から勧請申し上げおまつりした神社です。
そもそもこの神様は神功皇后(第14代仲哀天皇の皇后)が三韓御征討凱旋のみぎり、難波の海(今の大阪湾)が荒れて船先がみだれた時、この神、その軍船を御導き給い無事御上陸になられたので、住吉、長田の神と共にこの神を生田におまつりにになられたのが今の生田神社であります。
降って欽明天皇の御代にいたって一志の須で(浜洲)夜な夜な御神火が見えるので、地人(里人)神意を畏れ、騒ぎも一通りでなく、これを知った一志直青木といえる人が一夜神のみこころを仰がんものと海辺に出て御神誨を乞い奉ったところ、吾は生田の長峡に坐す稚日女神である、姉神の在す、神風伊勢のこの地に鎮まりたいとの御告げがあり、青木恐懼直ちに生田より御勧請、祠を造営し祭祀を行い、長くこの地に奉斎することになりました。
この神、姉天照大御神の御意により機殿にまして、きぬを織らせ給うおり素神が天班駒の膚をはぎその機殿に投げ入れ給うたため傷つかれ神去り給うた。その時の御言葉により婦人の守護神としての信仰厚く、尚機殿にまして機織のことに従事せられたことにより、後世紡績界にもその信仰深く、また神功皇后の軍船を守護せられお導きになられたことをあがめ航海の神、海の守りの神としての信仰もまた非常に厚いのである。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




香良州神社

祭神 稚日女尊
稚日女尊は天照大御神の御妹神にあらせられ、第29代欽明天皇の御代(飛鳥時代)生田の長峡(神戸市生田神社)より御勧請申し上げおまつりした神社です。
欽明天皇の御代にこの伊勢の浜洲でご神火が毎晩見えるので里の人々が畏れ騒ぎも一通りでなく、これを知った青木という人が神の御心をおがんだところ「吾は生田の稚日女神である、姉神の在す神風伊勢のこの地に鎮まりたい。」とお告げがあり生田より御勧請申し上げ社を造営し祭を行い長くこの地に奉祭する事になりました。伊勢の神宮と同様20年毎に式年遷座を行っています。

社頭掲示板



香良洲のケンカ踊り

この祭りは、香良洲神社での奉納一番くじによって踊る順番を決めますが、それを字(集落)によって定めるためケンカが始まるので、他郷の人々からは、別名「香良洲のケンカ踊り」とまで言われています。
 しかし土地の人々は香良洲神社で踊るため、これを「宮踊り」と言います。祭り当日、各区の踊り子は、まず香良洲神社の神前で踊り、その後各区へ戻ってから翌日の午前中まで、不眠不休で踊り続けます。
 踊り子は、頭から鳥毛のカブトという「かんむり」をつけ、頭からたれた鳥毛が顔を隠し、衣服は浴衣染めのジュバンを着て浴衣のモモヒキをはき、足はワラジを履いて、肩からカンコを吊るします。
 そのカンコ太鼓にたれる胴巻きは、各区ごとに違い、馬場区であれば「馬」の模様の縫取りの胴巻きといったもので、区の自慢話になるほど立派なものです。
 毎年8月15日に徹宵で行われ、「夜がらす祭」とともに、賑やかな夏の風物詩として町民に親しまれており、祭り当日は、町全体が活況に包まれます。



稻葉神社二座

稲葉は伊奈波と訓べし○祭神稻葉八上姫、八野若比女、(俚諺)〇矢野村に在す、加良須社と称す、(同上)〇古事記云、稲葉八上比売、大穴牟遅神、」出雲國風土記云、八野若日女命、進雄命女也、
当社社家新家清政云、昔香良洲社の森繁茂して白兎住り、今木枯て其事なし、渡会彦敬云、古事記稻羽素兎八上姫の拠あるか、然て小加良須宮は近年大水に流され給ふと也、
神位
三代実録、貞観7年4月15日乙丑、授伊勢国正五位上稻葉神從四位下、

神社覈録



縣社香良洲神社

祭神 稚日女命 合祀 御歳神 創建年代詳らす、但し式内社にして、神名帳考証に、稲葉神社二座、今加良須社、小加良須社合二座乎、八上姫、木股神、稻羽八上姫、国造本紀、稻葉國、因幡国八上郡大江神社、大屋姫命、一名八野若姫、素戔鳴尊女、實其荒魂也、今矢野村加良須明神是乎、八江矢並訓屋也、加良須俗称神験月水過之訛乎、祭礼6月16日、與祇園御霊曾同月同句、万葉集六嬬隠有屋上乃山、同云、妻隠矢野神社」と見え、神名帳考証再考に、「稲場也、前に出る牛庭に同じく、稻を枯すの崎也、(頭書に云く、香良須の祠官今井氏修造勧録牒には、須氏神社として稲葉神社也とせず、いふ所も無証の事也、故に取らず)又名所として星合の濱といふは、干曾の濱なるを、雅言を以て呼し也、其邊に月読ノ宮の旧跡と云ふ処有り、是は苅稲の事に因て、此神社に月続尊保食神二座を祀れるを、中古誤て二社となせし事有し成べし、(○頭書云、日本紀の古き説に、月夜見尊の保食神を殺し給ふに、秋の時に稻を刈て穀となすに叶へりと云ふ、)今は然らす、俗に月経の祈をなすは、月読は月清みの詞にかよへばなり、(月経を月とのみ云ふ事、古事記素戔雄尊の御歌に見えたり、」とあり、神社覈録に、「稲葉神社二座、稲葉は伊奈波と訓べし、祭神稲葉八上姫、八野若比女、矢野村に在す、加良須社と称す、古事記云、稻葉八上比売、大穴牟遅神、出雲風土記云、八野若日女命、進雄命女也」と云ひ、更に「当社社家新家清政云、昔香良洲社の森繁茂して白兎住り、今は木枯て其事なし、渡会彦敬云、古事記稲羽素兎八上姫の拠あるか、然て小加良須宮は近年大水に流れ給と也」と附記せり、神祇志料に、「稻葉神社二座、今稻葉村にあり、穂落大明神と云ふ、按に旧社域にありし寺院を、今も稻葉山と号し、稻葉の旧称、多野田蝿国両社を稻葉郷と称する者証とすべし」と見ゆ、社伝によれば、稚日女尊は即ち伊邪那岐尊の御子天照大神の妹神にして、欽明天皇の御宇矢幡主命の裔壹志直青木なる者に神託し、摂津國矢田郡活田長峡より打摩志痘ャ可美須弓の地に遷り給ふ、神名式に謂ゆる須弖神社是なり、元来此地は洲崎なる故に、須弖は洲出の意にして須出神社と称せしにや、又一説に此所は雲出川の下流分岐して洲崎をなし、即ち一志浦の洲崎にして、社前に対する海面常に穏かならす、来往の船舶風波に遇へば千辛萬苦して渉る故に、辛苦の義を含みて辛洲とも唱へ、遂に地名を以て社號に及ぼしたるならんとも云ふ而して当社が香良洲御前の神或は稚日女神と唱へて専ら庶民の崇敬するに至りしは、大同2年大伴文字征討使として勢国の兇賊を平げたる後、戦功を社頭に賽するに肪まり、中世以峰藤堂家の領となるに及び、矢野村に於て神領高三十石余を永代寄附し、式年の造営年分の修理等は、悉く公費より支弁せらるゝの例なりしかば、里民の如きも小香良洲神社を産土神と称し、当社は宛も官社の想をなせり、明治8年郷社に列し、同15年1月25日縣社に列せらる。
社澱は一宇にして、外に玉串門、神楽殿、御炊屋、神馬屋、諸社遙拝殿等具備し、墳内坪数7943坪(官有地第一種}の外98坪(民有地第一種)明治21年払下許可せらる、

明治神社誌料



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