雲出川の支流である長野川の西岸にあり、稲葉のうち下稲葉の集落にある森の中に鎭座する。田畑に恵まれた純農村地帯にあつて、社叢よく繁つている。 二座併殿の神社であり、左殿は伊佐波登美大明神、右殿を穂落大明神と称している。 |
稲葉神社 平安時代中期 927(延長5)年、醍醐天皇の御代に編纂された「延喜式」の神名帳にのせられている神社のことを式内社という。式内社は、御由緒が最も古く正しくて、朝廷の崇敬が特に厚く、神祇官及び国司の奉弊を受けられる神社のことである。久居市には5座の式内社があり、そのうち2座が、稲葉神社である。稲葉神社は、二座並殿の神社で、左を伊佐波登美大明神(伊佐波登美神)、右を穂落大明神(於保止志神)と称し、志摩国伊雑宮及び穂落の2所を祀る所と云い伝えられている・・・・・・稲葉郷と称して、鎮座の山寺の羽間院西光寺の山号を稲葉山と号している。氏子稲葉区は元の多野田村、蠅田村を合併したものである。又 社伝に曰く、「志州より勧請せし夜、社の後ろに大石出現する。」この大石は、懸悦の御霊石と称して瑞垣の内、社の後ろにあり、仙鶴の化身と信じられてきて。仙鶴は勧請と同時に、稲1株をくわえて、この地に降りきたった まな鶴で里人は稲作を伝えた神として■してきた。この大石は、地上高さ1.9m長さで1.8mに及ぶ花崗岩である。神社の境内は580坪、氏子は200戸である。稲葉は古く種生田村といい、仙鶴のもってきた種をまいたところからその名がつけられ、また、鶴の翼を広げたところを羽間田村といわれるようになった。その後転じて種生田村→多野田村、羽間田村→蠅田村となったという口碑がある。近世にかけて久居藩主藤堂佐渡守が大檀那になって造修理した棟札があり、広く地域の信仰をあつめていたようである。1871(明治4)10月稲葉村の村社と定められ、1874(明治7)年9月内務省より式内社調査があり、1875(明治8)年6月式内社と確定された。 毎年、旧6月14日ごろ稲葉神社の境内で16〜25才の下稲葉区青年団が中心となって、稲葉の祇園カッコ踊りが行われる。400年前から伝えられているもので、この日はキュウリを食べない習慣になっている。(祇園さんの紋がキュウリをたてに半分に切った型であるためといわれている。) 社頭掲示板 |