波瀬川南岸にある。神社の南側は水田で、約300m南を近畿日本鉄道大阪線が通つている。田の中の島となっており、遠方より目立つ立派な社叢をもつている。 庄村にも論社があり、共に雲出川沿岸の平地部にあつて、現代のように嚴重に築かれた堤防のなかつた時代には洪水などによる社地の移転が行われたことも考えられる。 「龍天宮」と称し、考昭天皇の兄、天押帯日子を祖とする「壱師君」は波多郷の宮古に居住し、その波多郷の氏神として奉られてきたと伝。 |
波多神社 波多は假字也、和名鈔、(郷名部)八太、(鉢多)○祭神詳ならず〇波多村に在す(考証俚諺)、 勢陽埋諺云、八田八太二村あり、和名鈔なるときは八田村なるべし、 類社 大和國高市郡波多神社の篠見合すべし 神社覈録 |
郷社波多神社 祭神 宇賀神 稻倉魂命 天水分神 創建年代詳ならすと雖も、延喜の制式の小社に列し、壹志郡十三座の一たり、即ち神名帳考証に、「波多神社、在波多村、土霊埴安姫神、世記、市師縣造祖建砦古命、波多砦言訓通、按壹志、或作市師、或作逸志、欽明紀云、浦神厳忌訓伊波也志、鎮火祭祀飼、一速比、郡名起自阿射加神乎、倭名抄云、八太郷大和國波比売神社、倭名抄云、駿河園埴生(反市)と見え、神名帳考証再考には、「倭名抄曰、八太(鉢多)雑例集云、一志郡外宮八太御厨、八太御園、上の例に因れば、御厨に祀る所にして倉稲魂命也、又考ふるに、萬葉集に、十市皇女参赴於伊勢神宮時、見波多横山厳吹黄刀自作歌、河上乃湯都磐村二草武左受当丹毛翼名当処女煮手、ユッイハムラは五百箇磐石なり、イホの切ヨ、第五のヨ、第三のユに転す、(例前に有)日本紀第一巻に、伊弊諾尊斬軻遇突智爲三段、此各化成神也、復劒刀垂血是爲天安河邊所在五百箇磐石也、即此経津主神之祖也と、是は香山を析て出し所の巖を云ふ、然るに同第二巻経津主神の系譜をいふに、磐裂根裂之子磐筒男磐筒女所生経津主神とあれば、彼厳の下を裂流るる水の霊無形の神を、祭主となし経津主の祖とする也、是を以て思ふに、波多の磐むらも河遣にて、此神社は磐筒男を祀るとも云ふべし」と云へり、神社覈録に云く、「波多は假字也、祭神詳ならず、波多村に在す、」勢陽俚諺云、「八田八太二村あり、倭名抄なるときは八田村なるべし」と神祇志料に云く、「波多神社、今八太郷波多村にあり、」又大日本地名辞書に、「八太郷、倭名抄、壹志郡八太郷、訓鉢多、今川合村(大字八太)高岡村是なり、雲出川の北方に湾曲せる圏内の地を曰ふ、波瀬川南西より来り之を貫き雲出川に入る、神鳳抄に、「一志郡八太御厨、又八太御薗とあり、大字八太と田尻(高岡村)は波瀬川を挾み、郷中の首邑にて、伊賀宇陀への通路之に係る、十市皇女、参赴於伊勢神宮時、見波多横山厳吹黄刀自作歌「河上乃湯津磐村爾草武左受常丹毛翼名常処女煮手」(萬棄集)、賂解に云く、波多横山は今も一志郡に八太里横山と云ふ地有て、大なる岩ども川邊に多しとそ、延喜式、壹志郡波多神社と見え、菅笠日記に云、「三渡(松崎村字六軒)より二里、八太と云ふ神あり、八太河(波瀬河)は板橋なり、渡りて田尻村と云ふより、漸々山路にかかりて谷戸大仰なんど云ふ里邊ゆく、大きなる川あり、雲出川の川上とそいふ、川邊を登り行くあたりの景色いとよし、大きなる岩ほども山にも道にも川の中にもおほくて、所々に淵のあるを見くだしたるいとおそろし、彼の吹の刀歌よめりしも此わたりならんと、縣居の大人の曰はれしは、質にさちあらんかしと」云へり、古事記に天火明命天降の條に田尻物部肩野と云へる人あり、今此八太村の西十町許に田尻村あり、又東十町許に肩野村(今片野と書く)あり、されば何等か縁由あるには非ざるかと古老の口碑に伝ふれども、末だ証拠を得す、尚後の考定を竣つ、明治8年11月郷社に列せらる。 社殿は一宇にして外に参籠殿あり、境内坪数544坪(官有地第一種)の外上地林6畝28歩より成る、 明治神社誌料 |