この地は天照大神飯高宮跡で倭姫命定祝という。 当地は『延喜式』巻4「伊勢太神宮式」神田条に「飯高郡二町」、同封戸条に「飯高郡卅六戸」とある、飯高神戸の設定された地。 明治まで境内池の蘭をむしろとして毎年内宮・外宮に奉納したと云う。 旧社名意悲神社と称したが明治維新の際、神社取調べ官吏により、神舘神明社と改称させられたとの伝がある。 御巫清直は当神社が飯高神戸の鎮守であり、「式社ニ列シテハ国津社トイフナルヘシ」として、式内社の「久尓都神社」に比定する一方、「意悲神社」は現松阪神社に比定している。 |
神戸神館神明社 御祭神 天照皇大神宮御霊 御杖代 大倭姫命 豊受大神宮御霊 県主 乙伊加豆知命 正勝吾勝勝速日天忍穗耳命 大山祇神 2柱 木花開耶毘売命 由緒 1.垂仁天皇22年癸丑12月28日より天照皇大神宮4ヶ年御鎮座飯高の富の地にましまして県主乙伊加豆知命神田神戸を奉り以来神戸六郷(下村上川大津垣鼻久保駅部田)の総社として崇敬をあつめている。 2.上古藺の苗が社地天降り境内御池に生育し之を採り藺莚を製し毎年内宮外宮に調進奉納せるも明治の御聖代に至り中止となれり。 3.又此の地は飯高神戸の政庁跡で神宮へ調進する新穀其の他の収納所でもあり現今字館の前には数個の旧館跡を存す。神殿は校倉造にして上古姿変ることなく現在に到れり。 4.当社は此の様に由緒ある神社なれば北畠氏押領後は紀州領となりし後も年々高四石を神領となし厚く崇敬せられたり。 昭和48年3月吉日 宮司 篠原昌三 社頭掲示板 |
神戸神館神明社 右飯高神戸ハ垂仁天皇ノ御世、倭姫命皇大神ヲ奉戴シテ諸國ヲ経歴シ給ヒ、飯野高丘宮二四年奉齋セラレシ時、飯高縣造祖乙加豆知命、其行宮ニ参謁シテ神田ト神戸奉進セシ旨大神本記大神宮儀式帳ニ載ス。其神田ハ延喜大神宮式ニ神田「飯高郡二町」ト注セラレ、神戸ハ同式ニ「飯高郡三十六戸」トアルニ所大神宮ノ御領ノ神田封戸是ナリ。世ヲ追テ神田モ数増シテ神鳳抄ニハ「飯高郡神戸九十三町三段。御神酒三罐。長莚二十四枚。祭料井造酒二石(筆者注、『新校群書類従』所収『神鳳抄』には十八石とある。)懸力稲四十束。端裏莚十四枚。長莚六枚。御鮨米二拾七石一斗」トアリ。是等ヲ年々貢進シテ二宮ノ供祭料トセシナリ。但シ神田ノ旧縦ハ今モ神舘社ノ東北三丁計ニ大宮田ト称スル田二町アリ。其艮隅ニチョウ田森トイフアルハ二町田ノ森ナルヘシ。此大宮田ノ内ヨリ四石ノ除地アリテ収納スルハ旧田ノ遺ナルコ分明ナリ。又大宮田ノ北ニミシロ田ト號スルモアリ。是年々莚調進ノ料ニアテタル田地ナルヘシ。其三十六戸ノ民家ノ蕃息セル村邑ハ上川「支邑高田」、下村「支邑四俣」駅部田久保垣鼻「支邑徳和」大津「支邑杉田原」ノ六村ナリ。是等ヲ今尚神戸六郷ト称ス。其村々ヨリ調庸租ノ年貢ヲ収敏スルカ爲ニ神舘ヲ下村ニ建テ神戸司ヲ任シテ是ニ居ラシメ神戸内ノ政事ヲモ掌シメシ也。然シテ神戸ノ地ニハ必ス神明ヲ神舘ニ奉祀スル例格ニテ當國六所ノ神戸各神舘神明アリ。一志郡ノ神戸ニハ長常村ニ神明社アリ。安濃郡ノ神戸ニハキ田村二神舘神明アリ。鈴鹿郡ノ神戸ニハ野尻村ニ神明アリ。河曲郡ノ神戸ニハ神戸城下ニ神舘神明アリ。桑名郡ノ神戸ニハ野代村ニ神明社アリ。其余大和・伊賀・尾張・参河・遠江・志摩ノ六箇國ノ神戸ノ地ニモ悉ク神明ヲ奉祭スルコト飯高郡ノ神戸ト同一也。其神祠何レモ鎭祭ノ始ヲ詳ニ記載セルモノ無シト雖トモ各神戸建置ノハシメヨリ一所記セル千有余歳ノ旧祠ニシテ祭神モ分明ナラザル叢社ニハアラス。而モニ所皇大神ノ御霊ヲ奉祀セルナレハ旧神戸ノ村民力ヲ合セテ造替シ來ルモ宜ナル哉。抑下村ノ神舘社ノ西ニ今猶御舘ト称スル地存セリ。將大神宮御遷宮ノ折ニハ旧神戸六郷ヨリ藺莚二千枚調進ス。但シ中古以來右莚ノ料ハ御支配ノ宮ヨリ賜之。 明治39年の神社明細帳の記述 |
意悲神社 意悲は假字也○祭神詳ならず○神戸郷下村に在す、(考証俚諺)今廣達明神と称す(俚諺) 神社覈録 |
久爾都神社 久爾都は假宇也、○祭神詳ならず〇郷津村に在す、(考証俚諺)、 類社 壹岐國石田郡國津神社 神社覈録 |