創祀年代は不詳である。 古来、乳熊郷には上之社、下之社と称する二社が奉齋されていた。この内、上之社石前神社は、中萬字里中の天台宗乳熊寺(南西450m)の境内にあり、下之社蛭子神社は牛頭天王二祠とともに宮寺天台宗護念院心光寺内にあつた。寛文12年9月、この上之社、下之社を現今の社地へ合祀した。 明治41年射和村の伊佐和神社に合祀。合祀後に社地遠隔で祭祀不十分であり昭和6年伊佐和神社の飛び地境内社として旧地に遷。 |
石前神社 神紋:右三巴、 境内:300坪、社殿:本殿、拝殿、社務所、手水舎、氏子:95戸、中万町、崇敬者:360名 由 緒 当社は『延喜式神名帳』飯野郡四座の内の一座に比定されている。当乳熊の郷には往昔、上之社と下之社との二社があり、上之社がこの石前神社に相当し、『古事記』に出てくる道之長乳歯之神を祭神として千熊氏の氏寺である乳熊寺境内に鎮座していた。又、下之社は心光寺内に鎮座していた蛭子神社(事代主命)を指したらしい。寛文年間(1661〜73)中万の住人山上長兵衛浄山氏の社地寄進により上之社と下之社とが現在の土地に合祀鎮祭されたといわれている。この頃から境内には、神明社(皇大神御魂)、三熊社(熊野大神)、宇気比社(天忍穂耳命)秋葉社(火遠理命)の四社が奉斎されていたという。それが明治41年4月16日にこの地区の愛宕神社(火之迦具土神)、八幡神社(誉田別命)、朝長神社(天之児屋根命)と共に、伊佐和神社に合祀された。しかしその後、氏子崇敬者による復興の努力がなされ、まず昭和6年3月15日伊佐和神社より仮御魂を分祀、昭和21年11月10日改めて伊佐和神社より祭神九座の御魂を迎え奉斎し、現在に至っている。尚、分祀後の神社名称は「伊佐和神社飛地境内社」であったが、旧名の「石前神社」に戻す運動が実を結び、昭和55年6月5日旧称に復帰した。 社頭掲示板 |
石前神社 石前は伊波佐岐と訓べし○祭神道長乳歯神、(考証、俚諺)○山添村に在す、(俚諺) 神社覈録 |