飯野高宮神山神社
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   【延喜式神名帳】神山神社 伊勢国 飯野郡鎮座

   【現社名】飯野高宮神山神社
   【住所】三重県松阪市山添町4
       北緯34度31分30秒,東経136度34分10秒
   【祭神】猿田彦命 天鈿女命
   【例祭】11月23日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】この地は飯野高宮の地という
       古来廃絶無く継承されている
       明治4年7月郷社
       同39年12月15日神饌幣帛料供進社
       同41年2月11日神山神社と単称

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初よりこの地で鎮祭
        所在について異論なし

   【祭祀対象】飯野高宮の故地
   【祭祀】江戸時代は「白髭大明神」と称していた。
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・御供舎・社務所

   【境内社】

山腹にあり。境内に踏切がある。
神山神社の地は天照大神が倭姫命を御杖代として、大宮地を求めて諸国を遷行された際、藤方片樋宮より此宮に遷幸し、4年間奉齋されたところで飯野高宮の地という。
垂仁天皇25年丙辰3月、天照大神が伊蘇宮に遷幸された後、猿田彦神霊と天鈿女命の苗裔猿女命を田上石楯が奉仕した。
古来、天照大神行宮の旧跡である飯野高宮として尊崇され、山添大明神、白髭大明神、或は、鍵取大明神と称されてきた。


飯野高宮神山神社

ご祭神 猿田彦命 天鈿女命 このお宮は訳2000年前皇居でお祭りしていた天照大御神を日本で最も良いところに祭ろうと皇女の倭姫命が各地をめぐられた時にこの地を選ばれて4年間お祭りされていた飯野高宮です。
のちに伊勢の皇大神宮(内宮へお移しされたがそのご案内役がご祭神の子孫でした。
猿田彦命は私たちすべて善い方にみちびき守ってくださる神様です。
また天鈿女命は天の岩戸の前で舞をした芸能の神様でもあります。

社頭掲示板



飯野高宮神山神社

神紋:左三巴 社殿:本殿(神明造)、拝殿、御供殿、社務所、祭器庫、手水舎
境外神社:須賀神社(須佐之男命、天忍穂耳命)、宇気比神社(天忍穂耳命)、須賀神社(素戔鳴尊)、豊原神社(大蔵命、大彦命)、清水神社(水靈神、埴安神他)
氏子:57戸、山添町 崇敬者:若干名
由 緒
 当社は古来天照大神の行宮である飯野高宮として尊崇を集め、山添大明神、白髭大明神、御鑰明神、神山神社等と称されてきた。「倭姫命世紀」によれば、垂仁天皇22年倭姫命が天照大神の宮処を求めて阿佐加の藤方片樋宮より飯野の高宮に移られ、そこで4年間天照大神を奉斎されたことが記されており、当社の創始は悠久の昔に遡るものと思われる。また「延喜式神名帳」飯野郡4座中に登載される「神山神社」にも比定される。
 当社の合祀の歴史については、明治40年1月28日に山添の三玉神社を合祀し、さらに明治41年2月11日には安楽の須賀神社ほか22社を合祀した。しかし昭和8年櫛田に櫛田神社、昭和28年清水に清水神社、昭和30年安楽に須賀神社、山下に字気比神社、伊賀に須賀神社、豊原に豊原神社を分祀し櫛田神社を除いて、飛び地境内社として現在に至っている。平成元年9月に神山神社から現社名に変更された。

社頭掲示板



神山神社

神山は加布夜萬と訓べし○祭神猿田彦大神、(考証、俚諺)○神山の巽山添村に在す、(俚諺)

神社覈録



郷社神山神社

祭神猿太彦大神
創建年代詳ならすと雖も神名帳考証に云く「神山神社、今在神山、俗称鑰取神、猿田彦神、鑰與員同訓、猿田毘古神於比良夫貝其手見咋、」神名帳考証再考に云く、「神山神社、世記に、飯野の高宮に四年奉齋と有り、先輩の論に高宮は中萬村の東の山なり、御鎮座の地故に神山といふと、強だりといふべからす、今此神山の巽に鍵取の明神とも、山添の明神とも称する小祠あり、里人傳へて皇太神の行宮是なりといふ、按ふに元山上に在りて高宮と云ひしを、是も浮屠氏等禍して律寺を置き、共社をば山添村に移し祀りし也、地勢高宮の名義に背けり」と、神社覈録に云く「神山は加布夜萬と訓べし、祭神猿田彦大神、神山の巽山添村に在す、」神祇志料には、「神山神社、今乳熊郷山添村神山の東半腹に在り、鑰取明神と云ふ」と見え、共に飯野郡(明治29年飯野飯高の二郡を合せ飯南社と改む)四座の一に列し、式内小社とす、或は云く「当社は垂仁天皇22年倭姫命皇大神を奉じて、阿佐賀藤方片樋の宮より飯野の高宮に奉遷し此に齋くこと三年、即ち此宮なり」と、大日本地名辞書伊勢國飯南郡櫛田郷の下文に「和名鈔、多気郡櫛田郷、訓久之多、今櫛田村是なり、神山村の北、櫛田川の西岸の地なれば、全く多氣郡と隔離す、神鳳抄には「飯野郡櫛田河原御薗」と見ゆれば、和名抄之を多気郡に属せしめたるは誤れり、東鑑文治3年、伊勢国齊宮寮田、櫛田郷、云々、」又、櫛田の條下に、「今大字豊原に國道通過し、之を櫛田駅と為す」古村は其北に在り、延喜式に多気郡櫛田神社ありて、倭姫世紀に云く、從飯野高宮幸行、御櫛落給き其地を摘田と号し給ひ、櫛田社と定給き、此社は今村社に列せらる、其他大櫛神社櫛田槻本神社并に式に列し、今本村に遺る」と見ゆ、是に由れば或いは当社の旧称櫛田神社に非ざるか、追つて考ふべし、而して櫛田槻本神社に就き、神名帳考証は「今南櫛田豊原に在りとし祭神を倉稲魂とて、神社覈録は祭神詳ならす、豊原村に在す、今飯野郡に属すとし、神祇志料は今飯野郡櫛田むらにあり、槻本御櫛社といふとなし、大櫛神社に関し神名帳考証は、姓氏録を引き、阿閇臣、大彦命男大稻輿命後、按櫛與輿言通すとなして別に所在を示さず、神社覈録は祭神所在等詳ならすと云ひ、神紙志料には「今豊原村袖引社蓋是也、凡本郡五十二座の神並に齋宮祈年祭に預る」と見え、共に多気郡五十二座の中に列し、而かも其所在を異にし、今俄かに熟れか正しきを知らす、記して後の考定を埃つ、殊に鑰取明神の號に至りては更に一層の検覈を要す、明治7年郷社に列せらる、同41年村杜宇気比神社三座、同須賀神社二座、同穂卸神社、同熊野神社、同大櫛神社、同櫛田神社、同流田神社及び無格社十三座境内社一座を合祀す。
社殿は本殿、拝殿、御供殿等にして、境内坪数934坪(官有地第一種)を有す、老樹繁茂して千古の悌を存せり。

明治神社誌料



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