意非多神社
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   【延喜式神名帳】意非多神社 伊勢国 飯野郡鎮座
   【延喜式神名帳】牟礼神社 伊勢国 多気郡鎮座

   【現社名】意非多神社
   【住所】三重県松阪市西黒部町1746
       北緯34度35分21秒,東経136度34分30秒
   【祭神】伊毘志都幣命 豊受姫命 事代主命 須佐之男命
       猿田彦命 市寸島姫命 大山咋命 大山祇神 少彦名神
       天津日子根神 天目一命
       出口延経『神名帳考証』大御食津姫神
       橋村正身『神名帳考証再考』豊宇気姫命
       鈴鹿連胤『神社覈録』大御食津神
       『勢陽俚諺』埴安神

   【例祭】4月11日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創祀年代は不詳
       永保2年(1082)伊勢地方に暴風雨あり社殿流失
       寛治元年(1087)正月現在の社地に奉遷し、楯築大明神と称する
       明治3年意非多神社と称し村社
       明治39年12月幣帛供進指定社
       昭和6年郷社

   【関係氏族】多氏
   【鎮座地】「大板」の地に創祀する
        寛治元年(1087)正月現今の社地に奉遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「楯築大明神」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・雑屋・帳舎・社務所

   【境内社】

現今の社地よりおよそ五六町南西「大板」の地に創祀する。
社名は大板=意非多=多であるとされている。
当地一帯を開拓した多氏が、米穀の豊穣を所つて、この大板の地に奉齋したものと思われる
永保2年(1082)夏伊勢の地大いに震い暴風雨あり爲に櫛田川堤防決壊し田畑六百余町を潰し神社十二社を流失する。
寛治元年(1087)正月現今の社地に奉遷し楯築大明神と称する。
牟礼神社(多気郡鎮座)を当社に比定する説もある。(『伊勢式社案内記』『勢陽五鈴遺響』『勢國見聞集』)


意非多神社

延喜式内意非多神社
由緒
当、意非多神社は、往古より検地帳に記載された「楯築大明神」とも称されていましたが、近世の式内社調査において神社の旧地の字名が“大坂”ということからも「延喜式神名帳」に記載されている飯野郡式内社四座の内の一座意非多神社として、悠久の歴史とともに世々人々に尊信されてきました。
また、現在の西黒部・高須地区に祀られていた9神社も、明治10年代には、すべて当社に合祀され、昭和21年2月、社格制度が廃止去れ「宗教法人」となるまでは“郷社”に列せられるなど、あらたかな御神徳により我が里の民を守り給いて、現在にいたっています。 祭神 
伊毘志都幣命 豊受姫命 事代主命 須佐之男命 猿田彦命 市寸島姫命 大山咋命 大山祇神 少彦名神 天津日子根神 天目一命

社頭石碑




由緒

由緒 創立年月日推定千五百年前
延喜式内 國史所載 國内神名帳所載
旧社格郷社 昭和6年2月4日列格
當神社は現今の社地より凡五六町坤位「大板」の地に創祀す往古より意非多神社と称し延喜式内社たり。その創建年號を詳にせずと雖、延喜式に記載あるを以て按ずれば千年以上を経過せること論をまたず。然るに人皇72代白河天皇の御宇永保2年夏伊勢の地大いに震ひ暴風雨あり爲に櫛田川堤塘大いに決壊し田畑六百余町を潰し神社十二社を流失す(神麻績神部脇田氏所藏の古記)。
比時、當神社も社殿其他を流出す爾來此邊一帯低地となり、大雨の際には雨水汎濫し参拝難なり。之によりて里人相謀り73代堀川帝の御宇寛治元年正月現今の社地に奉遷し(棟札)楯築大明神と称す。又当時社地は洲先なりしか故に洲先大明神とも称す。尚、北畠蒲生古田服部紀州家と相傳へて旧大板の高内六石一斗を寄進あり明治に至る(北畠記寛永15年水帳写、宝暦検地帳)。
明治3年意非多神社旧名を襲ひ間もなく村社に列し、明治39年12月、三重縣告示を以て幣帛供進指定社となり、昭和6年郷社に昇格又明治40年境内社稻生神社若宮神社字天王鎭座無格社濱能神社社証神社を同年九月、須崎神社を41年3月大字網屋鎭座無格社日吉神社、字浦新田鎭座無格社高須神社を合祀し、意非多神社と単称の許可を得て今日に至る。
當神社境内地762坪は、昭和22年、法律第53號によつて國第847號昭和23年3月20日附を以て無償譲與許可になり、昭和24四年9月17日登記完了。昭和21年2月2日勅令第710號により社格廃止。昭和21年2月2日勅令第70號宗教法人法により同年5月10日三重縣知事に届出宗教法人となる。

由緒書




意非多神社

通称:立付(たてつき)大明神
神紋:五三桐、 境内:762坪、境外地:2,424坪、  社殿:本殿、拝殿、神饌所、社務所、氏子:400戸、西黒部町、高須町
由 緒
 当社は別名「楯築大明神」「立付大明神」「牟礼神社」とも呼ばれる。 社伝によると元明天皇の御代、和銅年間に神八位耳命の後裔の多姓の人が「大板の里」を開拓、その子孫を移住させ、産業を大いに奨励、推進させて、土地・人民の繁栄を祈るべく、大御食の神、伊毘志都幣命を奉斎したのを創祀とする。
 『延喜式神名帳』の飯野郡四座の中の第一座に「意非多神社」が記載されているが、当社のことと考えられる。また、当地ゆかりの戦国の諸将(蒲生・古田・服部)や紀伊大納言家等が当社を篤く信仰したことが今に伝えられている。
 明治40年6月から同41年5月にかけて、当社境内社の稲荷神社(豊受姫命)ほか11社を合祀し現在に至っている。現在の社地に定められたのは、寛治元年(1087)のことで、旧地を改めたのは櫛田川西岸堤の決壊による洪水のため社殿が流失したことによるという。

三重県神社庁



御神木由来

和銅年間(今から約1300年前)大板の地に楯築大明神が祀られました。大水害で寛治年間(今から約900年前)此の地に移りました。何時の時か松の種が落ち芽が出、新しい生命が誕生しました。何百年か経ち松の小木は大木に育ちました。信長の侵攻、江戸時代、新田開発、明治維新、日清・日露戦争、支那事変、太平洋戦争、東海地震、十三号台風、伊勢湾台風等西黒部の移り変りを見つめて来た御神木でありました。永い歳月を経た大木は生命尽き自然に帰りました。平成7年遷宮を記念して地中に残る御神木の生命を後世に伝えます。

社頭掲示板



意非多神社

意非多は假字也○祭神詳ならず○朝田村に在す、今長田社と称す、(考証、俚諺)、
考証云、大御食津神」勢陽俚諺云、埴安神、未熟れか志らず

神社覈録



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