伊佐和神社
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   【延喜式神名帳】伊佐和神社 伊勢国 多気郡鎮座

   【現社名】伊佐和神社
   【住所】三重県松阪市射和町1073
       北緯34度30分40秒,東経136度32分29秒
   【祭神】建速須佐之男命 (合祀)皇大神御魂 猿田彦大神
       天之児屋根命 伊弉諾命 大山祇荒魂神 天之手力男命 市杵島姫命
       火之迦具土神 大物主命 事代主神 天穗日命 天津彦根命 湍津姫命
       熊野大神 活津彦根命 田心姫命 火遠理命 水波女命 水分神 誉田別命
       道之長乳磐命 宇賀御魂神 熊野杼樟日命 武津奴身命 菅原道真 柿本人麿
       天忍穗耳命 祭神不詳4座

   【例祭】12月15日 秋季大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       明治2年射和神社と称した
       明治6年村社
       明治41年に八重垣神社に合祀、伊佐和神社と単称

   【関係氏族】
   【鎮座地】旧社地は射和寺藥師堂の境内という
        文化12年(1815)洪水で埋失、射和町の字会下前(射和小学校の裏付近)に遷
        現在地は八重垣神社の地
        明治41年に八重垣神社に合祀、伊佐和神社と単称

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八王子」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・社務所・神輿庫

   【境内社】

櫛田川北岸近く、射和小学校北東に鎮座する。
江戸期には2社の産土神社があった。
明治2年に、上社を射和神社、下社を八重垣神社と改めた。明治41年に八重垣神社に射和神社を合祀し、伊佐和神社と単称した。
旧地は南270mの射和寺の境内とする。
かつてこの地は水銀が産出され、中世後期には射和軽粉(白粉)で江戸・京都にて成功したこの地の豪商が居たという。


伊佐和神社

射和町は今は220戸程度の町ですが、今より約420年前の、元亀天正の頃(1570〜1573年)の頃は、戸数500戸をもつ活気ある町を形成し、富を集めて軽粉業者(伊勢白粉)83釜が甍を並べて栄えていました。この軽粉業が盛んになった室町末期、この軽粉素材の水銀による障害により、職人たちが手足のしびれや痛みや歯がぬけたり、若くして死ぬ人が続出したため、鎮魂の祭りを行った、これが射和祇園祭りの始まりではないかと思われます。射和の祇園さんと親しまれ、遠近より沢山の参拝者がみえます。
由 緒
 当社は三重県松阪市射和町1、073番地(現在地)に鎮座されています。
 由緒『竹川竹斎軽粉雑記』によると「天平勝宝元年(749)9月15日射和東端より蓮生寺西畑の中に旧地あり、作物を除きこの地に勧請す。文禄年中(1592−95)産子に神勅あり、この山の麓に遷し、毎年6月に祇園祭礼を行う。とある。明治40年に八重垣神社、紀師神社など二十二社を合祀し、翌41年には石前神社など十一社を合祀した。 また、昭和57年には石前神社を分祀している。
 (祇園祭の概要)当社には今を去る830余年の昔より一輿約一六〇貫もある御輿が二台保存されており、毎年7月第三土・日の二日間盛大な夏祭り(祇園祭)が斎行される。 初日は正午に 神移しの神事が始まる 。 まず第一御輿に神職が 牛頭天王の御霊代を遷座し、次いで第二の御輿へ八王子の命の御霊代を遷座しそれを36人の若者が拝殿前より鳥居の下まで担ぎ下ろし、露払いの鬼面を着した先達を 先頭に大榊、天王様の御輿、続いて役員、総代、間をおいて八王子様の御輿、続いて神職、役員総代か続いて町々を練り回り、午後五時ごろに御旅所である射和寺境内に到着、ここで御着の神事が斎行され、日没頃から11時半頃まで各種の神賑行事が行われる。
 第二日目は午前八時御旅所を出御の神事が済むと若者に担がれ、町々を巡行、午後3時頃櫛田川の辺りの広場で夕方まで御休憩、夕方6時頃、十数本の高張提灯に火を入れ、又六台の子屋台にも一斉に紅い提灯に火を入れ、鐘や太鼓で賑し立て、一輿に八本の高張提灯を御輿の屋根に組み、町々を巡行して神社へ向かう。午後11時半頃神社に還行、拝殿前に奉安する。御還座、鎮めの神事が斎行され、二日間の祭りを終える。

三重県神社庁



伊佐和神社

伊佐和は假字也○祭神伊佐波止美命、又伊勢津彦命、○射和村に在す、(考証、俚諺)今飯野郡に属す、

神社覈録



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