櫛田川北岸近く、射和小学校北東に鎮座する。 江戸期には2社の産土神社があった。 明治2年に、上社を射和神社、下社を八重垣神社と改めた。明治41年に八重垣神社に射和神社を合祀し、伊佐和神社と単称した。 旧地は南270mの射和寺の境内とする。 かつてこの地は水銀が産出され、中世後期には射和軽粉(白粉)で江戸・京都にて成功したこの地の豪商が居たという。 |
伊佐和神社 射和町は今は220戸程度の町ですが、今より約420年前の、元亀天正の頃(1570〜1573年)の頃は、戸数500戸をもつ活気ある町を形成し、富を集めて軽粉業者(伊勢白粉)83釜が甍を並べて栄えていました。この軽粉業が盛んになった室町末期、この軽粉素材の水銀による障害により、職人たちが手足のしびれや痛みや歯がぬけたり、若くして死ぬ人が続出したため、鎮魂の祭りを行った、これが射和祇園祭りの始まりではないかと思われます。射和の祇園さんと親しまれ、遠近より沢山の参拝者がみえます。 由 緒 当社は三重県松阪市射和町1、073番地(現在地)に鎮座されています。 由緒『竹川竹斎軽粉雑記』によると「天平勝宝元年(749)9月15日射和東端より蓮生寺西畑の中に旧地あり、作物を除きこの地に勧請す。文禄年中(1592−95)産子に神勅あり、この山の麓に遷し、毎年6月に祇園祭礼を行う。とある。明治40年に八重垣神社、紀師神社など二十二社を合祀し、翌41年には石前神社など十一社を合祀した。 また、昭和57年には石前神社を分祀している。 (祇園祭の概要)当社には今を去る830余年の昔より一輿約一六〇貫もある御輿が二台保存されており、毎年7月第三土・日の二日間盛大な夏祭り(祇園祭)が斎行される。 初日は正午に 神移しの神事が始まる 。 まず第一御輿に神職が 牛頭天王の御霊代を遷座し、次いで第二の御輿へ八王子の命の御霊代を遷座しそれを36人の若者が拝殿前より鳥居の下まで担ぎ下ろし、露払いの鬼面を着した先達を 先頭に大榊、天王様の御輿、続いて役員、総代、間をおいて八王子様の御輿、続いて神職、役員総代か続いて町々を練り回り、午後五時ごろに御旅所である射和寺境内に到着、ここで御着の神事が斎行され、日没頃から11時半頃まで各種の神賑行事が行われる。 第二日目は午前八時御旅所を出御の神事が済むと若者に担がれ、町々を巡行、午後3時頃櫛田川の辺りの広場で夕方まで御休憩、夕方6時頃、十数本の高張提灯に火を入れ、又六台の子屋台にも一斉に紅い提灯に火を入れ、鐘や太鼓で賑し立て、一輿に八本の高張提灯を御輿の屋根に組み、町々を巡行して神社へ向かう。午後11時半頃神社に還行、拝殿前に奉安する。御還座、鎮めの神事が斎行され、二日間の祭りを終える。 三重県神社庁 |
伊佐和神社 伊佐和は假字也○祭神伊佐波止美命、又伊勢津彦命、○射和村に在す、(考証、俚諺)今飯野郡に属す、 神社覈録 |