県道60号線の北、大淀郵便局の北に鎮座する。 垂仁天皇の26年秋、皇女倭姫命が定祝という。 中世「二天八王子」と称された。中世二天八王子を疫神として域内の小祠に祭ったがいつしか本社をも「二天八王子」と称するようになった。 この小祀は明治3年に「内宮庁」が社名を狭霧伸社と改めた。 応永31年(1424)から天正8年(1580)年までの約150年間にわたる大淀村二天八王寺御神事頭番帳[県文化]がある。 |
由緒 当社の創立は垂仁天皇の26年秋、皇女倭姫命が皇大神宮の鎮座地を求めて、佐々牟江行宮から、御遷幸の際、この大淀浦を航海の時、風浪がなく海水が、大与度美に淀んで、御船の航路が安泰であったので、命は大いに悦ばれて、この地方の総氏神として、大淀の宮を定められたと伝えられています。 延喜式内社に列し、神祇官より幣帛を奉献されました。明治4年神宮制度改革まで、皇大神宮の80末社の1つであり、神宮が管理された社です。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
竹大與杼神社 此社ハ内宮末社ニシテ両村ノ産神タリ。從來二天八王子ト唱ヘシ、延喜式神名帳多氣郡五十二座ノ内ナリ。其元始ハ倭姫命世記二、垂仁天皇十五年、倭姫皇女皇大神ヲ奉戴シ、佐々牟江宮ヨリ御船二乗御シ、東二向テ幸行ノ條ニ日ク、從其処幸行ノ間二無浪風シテ海盛大與度二與度ミ、御船令幸行、其時倭姫命悦給テ其濱二大與度ノ社ヲ定給キ。トアル社ニテ、古昔ハ大淀社ト構セシ旧祠ナリ。然ルニ後世二天八王子ヲ疫神トシテ域内ノ小祠二祭レルヲ誤テ本社二及ボシタルナリ、仍テ祭神不詳。 明治11年神社明細帳 |
竹大與杼神社 江戸時代より疫病退散、五穀豊饒、町内繁栄を祈念して、氏子の奉仕の下、山車が町内を巡行、夜は花火大会を奉行する。室町時代、1月6日に二天八王子御頭神事が斎行された記録が、県文化財として残っている。 由 緒 当社の創始は、「倭姫命世紀」に皇女倭姫命が天照大神の御神霊を奉載して、大淀の浦を航行の際風浪がなく海水が「大与度に与度美」て御船の航路が安全であったために、命は大いに悦ばれ、大与度社を定められたとあり、垂仁天皇の御世に遡るという。延喜式内である。明治39年、神饌幣帛料供進社に指定、翌年に地区内の25社を当社に合祀、竹大与杼神社と単称し、昭和26年、豊歳稲荷神社を、また戦没者英霊を奉載する大霊神社を境内社として現代に至る。 三重県神社庁 |
竹大與杼神社 竹は前に同じ、大與杼は於保豫登と訓べし、〇祭神詳ならず〇大淀村白良濱に在す、(考証、俚諺) ○倭姫世記云、海塩大與度爾輿度美氏、御船令幸行、其時倭姫命悦給氏、其浜爾大與度社定給支、 神社覈録 |