宇尓神社
うにじんじゃ
鳥墓神社 に合祀
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   【延喜式神名帳】宇尓神社 伊勢国 多気郡鎮座
          (合祀)国生神社

   【現社名】鳥墓神社に合祀
   【住所】三重県多気郡明和町蓑村字鳥墓
       北緯34度31分6秒,東経136度37分51秒
   【祭神】埴安姫命
       『神名帳考証』埴安姫
       『延喜式神名帳僻案集』『三國地志』『神名帳考証再考』『勢國見聞集』埴安神

   【例祭】
   【社格】
   【由緒】不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】江戸末期まで有爾中村と蓑村の堺(蓑村四番地)に鎭座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「羽根美社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

国道37号線の南に鎮座する。台地の上に鎮座し、前面は畑地。背後は交通路の多い道路で騒音が多い。
この地はかつて神宮の神痔(かんだち:神宮の役所)の置かれた所で、孝徳天皇の御代に山田原に遷された跡に式内国生神社が鎭座し、後に鳥墓神社と改称された。また昭和12年からこの地に神宮土器調整所がおかれて、神宮で使われる土器はすべてここでつくられている。
宇尓神社は江戸末期まで有爾中村と蓑村の堺(蓑村四番地)に鎭座していた。


鳥墓神社

鳥墓神社(別名天王森羽根美社)
  由緒
 式内国生神社 祭神 倉稲魂命 須佐之男命
 式内宇爾神社 祭神 埴安神
人皇第十一代垂神天皇ノ御宇天照皇大神五十鈴川上ニ御鎮座ニナリ宇爾郷鳥墓村ニ神ガ置レ度會多氣ノ神郡ノ正税(稲穂)ノ徴収ガコノ地ニテ行ワレタ
孝徳天皇ノ御代ニ神ガ山田原ニ遷サレタノデソノ遺址趾ニ国生神社及ビ宇爾神社ガ創建サレタ
何レモ延喜の儀式帳ニノセラレタ古社デアル後時代ハ不明デアルガ両社ノ名称ハコノ由緒アル地名ヲトツテ鳥墓神社ト改メラレタ
明治十四年ニハ世古村ノ八柱神社ヲ當社ニ合祀セラレテ今日ニ至ツタ
昭和45年9月吉日

社頭掲示板



鳥墓の神痔跡

明和町指定文化財
昭和58年1月
この地は、垂仁天皇の御代、紀元前6年内宮が伊勢の五十鈴川の川上、現在の地におまつりされたときから伊勢神宮の神痔の置かれたところであります。神痔とは神宮の役所であり、孝徳天皇の大化5年(649)までつづきました。
明和町教育委員会

社頭掲示板



土器焼成坑

蓑村の東に小高い丘がありますが、ここが鳥墓というところで鳥墓神社があります。この地は昔、天照大神が五十鈴の川上にお鎮まりになったときから伊勢神宮神だちの置かれたところです。神だちというのは神宮の役所で孝徳天皇の大化五年(649)までありました。昭和12年からこの地に神宮土器調整所がおかれて、神宮で使われる土器はすべてここでつくられています。斎宮歴史博物館の裏側にあたる『古里体験広場』に、古代の人々が使った素焼きの土器を焼く窯=焼成坑の模型が完成しました。焼成坑の模型は、長さが約3m、幅が約1・5mのものをはじめとする3基。明和町蓑村にある『北野遺跡』に見られる焼成坑跡をモデルに、(財)国史跡斎宮跡保存協会が製作したもの。今後は土器づくりの際の野焼きに無料で使えるそうで、古代の人々の暮らしぶりを学ぶための土器づくりの体験学習に大いに役立てられそう。

明和町



鳥墓神社

神宮土器調製所のすぐ西に、鳥墓(とつか)神社という神社が鎮座している。
『延暦儀式帳』には、垂仁天皇の皇大神宮鎮座時から孝徳天皇の御代まで、有爾鳥墓(うに・とつか)村に神痔(かんだち)があり、 神宮の諸々の神政を取り仕切っていた、という記述があり、その神?がこの地にあったとされる。
神痔は孝徳天皇の大化五年(649)に外宮近くの山田原に移転し、その後、御厨(みくりや)、そして大神宮司(おおかみのみやのつかさ、だいじんぐうじ)と改称した。
大神宮司はその後、現在のJR宮川駅に隣接する離宮院公園の位置に移転することになる。
神痔移転の後はその跡地に国生神社(祭神:倉稲魂命、須佐之男命)と有爾神社(祭神:埴安神)の二社が建ち、この二社はその後合祀して鳥墓神社と改称、 明治に世古村の八柱神社を合祀して今に至るという。
国生神社・有爾神社の二社は、『延喜式』神名式の伊勢国多気郡条に名がみえる式内社であり、同じく斎宮寮式にも、斎宮の祈年祭において祭る神社に名を連ねている。

http://flxsouko.web.fc2.com/tohoFSSjinja_mie01-2matsusaka.html



宇爾神社

宇爾は前に同じ○祭神詳ならず○宇尓郷蓑村に在す(俚諺) 考証云、埴安神、(俚諺同)」倭姫世記に、大泊瀬稚武天皇(雄略)21年10月、随天神之訓、土師物忌乎定置、取宇仁之波爾、造天平甍八十枚天、敬祭諸宮、」神宮雑例集に、仁安4年3月15日、御器長兼下有爾村刀禰敢貞元解云、天平賀役貞元為敢氏之和伝職、任先例可勤進云々、」又云、永久4年。有爾村土師長敢左近、云々、』儀式解(土師器作物忌の注)に、此邊を宇爾郷といふは、大御神の土師器陶器を作るよりいふべし、其故は土は波爾とも爾ともいぶ、丹を爾といふも土より出たる訓なり、さて其爾に例の宇を蒙らせて宇爾といふ、馬は万なるを宇万、梅は米なるを宇米などいふ例に同じ、と云り、連胤按るに、世記云、土師物忌の氏は知れねども。儀式帳に、土師器作物忌、麻積部春子女云々とあれぱ、往古は麻続部氏なりけん、されば其氏神なるべく、後には敢氏となれれど、当社は神麻積連祖天八坂彦命にて、土の由縁には預るまじきここちす、又宇爾の名義を、馬梅の例に云るもいかがあらん、覚束なし、

神社覈録



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