大堀川右岸の柏集落の南東の畑地の中に鎮座する。 由緒不詳、江戸期には所在不詳となっており、柏村の「柏殿」と「産神社」のどちらに比定するか分かれていた。 明治42年6月25日に境内の二社と村内の無格社三社と共に新設された北浜村の北浜神社ヘ合祀された。 昭和7年1月現在地に北浜神社より分祀奉斎、未だ非公認の神社であり、北浜神社の御旅所として祭祀。 昭和26年3月独立 |
由緒 現在の加須夜神社は、昭和26年3月15日、旧北浜神社より分祀新設された神社である。 当社はもと、柏町129番地に鎮座する社で、古くから柏集落の産土神として奉斎されてきた社であった。 それが、明治の神社合祀令によって北浜神社に合祀され、廃社となっていたのを、新たに分祀し、復活させたのである。 柏集落の産土神である村社加須夜神社の創祀については不詳であるが、『延喜式』神名帳記載の「多気郡加須夜神社」に比定されていることからも、かなり古くから祀られていたと思われる。 長き亘って尊崇された当社も、先述のごとく、神社合祀の波に呑み込まれ、明治42年6月、境内神社油殿社(旧八王子と唱え、字油殿に鎮座していたのを文政4年(1821)本社境内に遷宮)、同内山社(日吉権現と唱え、字内山に鎮座していたのを文政4年(1821)本社境内に遷宮)、字柏殿鎮座の無格社古殿社、字北稲葉鎮座の無格社浅間社字鍜治田鎮座の無格社水神社とともに、北浜村大字村松字西山、同村大字東大淀字東山の立会地に新設された村社北浜神社に合祀統合される。 これにより加須夜神社は廃絶する。 しかし、何とか産土神を復活とせたいという敬神の念厚き氏子の総意により、昭和7年1月、北浜村大字柏村1607ノ2の現在地に、本殿、拝殿等の礼拝施設を調え、北浜神社より分祀奉斎した。 この結果、加須夜神社は、柏の地に戻ったわけだが、未だ非公認の神社であり、北浜神社の御旅所として祭祀を続けることしかできなかった。 戦後になって、昭和26年3月、永年の苦労が結実し、神社本庁の設立承認を得、公式に加須夜神社が設立され、今日に至っている。 当社は大堀川右岸、柏集落の南東の水田地帯に鎮座しているが、この柏という地名は、『神鳳王鈔』に「糟屋御薗」とあり、社名も「加須夜神社」であることから、「カスヤ」が「カシワ」に訛化したものだと言われている。 尚、この柏集落は、多気、度会の郡境に位置するため、古くは多気郡に、近世以降は度会郡に属した。 昭和30年以降は伊勢市に属している。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
加須夜神社 現在の加須夜神社は、昭和26年3月15日、旧北浜神社より分祀新設された神社である。 当社はもと、柏町129番地に鎮座する社で、古くから柏集落の産土神として奉斎されてきた社であった。それが、明治の神社合祀令によって北浜神社に合祀され、廃社となっていたのを、新たに分祀し、復活させたのである。 柏集落の産土神である村社加須夜神社の創祀については不詳であるが、『延喜式』神名帳記載の「多気郡加須夜神社」に比定されていることからも、かなり古くから祀られていたと思われる。 長き亘って尊崇された当社も、先述のごとく、神社合祀の波に呑み込まれ、明治42年6月、境内神社油殿社(旧八王子と唱え、字油殿に鎮座していたのを文政4年《1821》本社境内に遷宮)、同内山社(日吉権現と唱え、字内山に鎮座していたのを文政4年《1821》本社境内に遷宮)、字柏殿鎮座の無格社古殿社、字北稲葉鎮座の無格社浅間社字鍜治田鎮座の無格社水神社とともに、北浜村大字村松字西山、同村大字東大淀字東山の立会地に新設された村社北浜神社に合祀統合される。これにより加須夜神社は廃絶する。 しかし、何とか産土神を復活とせたいという敬神の念厚き氏子の総意により、昭和7年1月、北浜村大字柏村1607ノ2の現在地に、本殿、拝殿等の礼拝施設を調え、北浜神社より分祀奉斎した。この結果、加須夜神社は、柏の地に戻ったわけだが、未だ非公認の神社であり、北浜神社の御旅所として祭祀を続けることしかできなかった。 戦後になって、昭和26年3月、永年の苦労が結実し、神社本庁の設立承認を得、公式に加須夜神社が設立され、今日に至っている。 当社は大堀川右岸、柏集落の南東の水田地帯に鎮座しているが、この柏という地名は、『神鳳王鈔』に「糟屋御薗」とあり、社名も「加須夜神社」であることから、「カスヤ」が「カシワ」に訛化したものだと言われている。尚、この柏集落は、多気、度会の郡境に位置するため、古くは多気郡に、近世以降は度会郡に属した。昭和30年以降は伊勢市に属している。 三重県神社庁 |
加須夜神社 加須夜は假宇也○祭神出雲笠屋命、(考証、俚諺)○柏村に在す、(同上)○神鳳抄云、糟屋御園、 神社覈録 |