官舎神社
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   【延喜式神名帳】官舎神社 伊勢国 度会郡鎮座

   【現社名】官舎神社
   【住所】三重県伊勢市小俣町本町
       北緯34度30分6秒,東経136度40分16秒
   【祭神】建御雷之男神 経津主神 天児屋根命 (配祀)姫神
       (合祀)天忍穗耳命 天之菩卑能命 天津日子根命 活津日子根命 熊野久須毘命
       多紀理毘売命 市木島比売命 多岐都比売命 猿田毘古大神 建速須佐之男神
       倉稻魂命 大己貴神 大田命 大宮女神 保食神 金刀比羅神 祭神不詳

   【例祭】9月15日 例祭
   【社格】旧県社
   【由緒】創祀不詳
       延暦16年(797)以降、離宮院西方に鎭座
       中世廃絶
       寛文3年(1663)再興
       明治12年9月24日、「官社神社」として再興
       昭和19年県社

   【関係氏族】大中臣氏
   【鎮座地】この地は「離宮」の跡地
        離宮院内の大神宮司御厨に隣接していた社
        中世廃絶

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「離宮」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・神宝殿・社務所・参集殿

   【境内社】

平地の広大な神社。叢林がある。
宮川下流域汁谷川左岸の河岸段丘上に位置し、JR参宮線の宮川駅の南に隣接する。境内は全て「離宮院跡」として国の史跡に指定されており、平安時代以降、伊勢大神宮の御厨(庁院)・斎内親王の離宮・勅使などの駅使院等があつた場所である。
官舎神社の名は『延喜神名式』に見えるのみである。
離宮院内に祀られていた「中臣氏祖神」が官舎神社のこととされている。
延喜式内「官舎神社」は、離宮院内の大神宮司御厨に隣接していた社で、その祀る神は大宮司の「中臣氏祖神」であつた。歴代の大宮司によつて祀られていたが、離宮院の退転とともに衰退し、中世末から近世にかけては社殿もないまゝに「離宮」の神として祀られていた。
大中臣精長は、寛文年中、その「離宮」の一角に「中臣氏社」の社殿を再興した。
明治2年には「離宮」と称されていたが、その後廃社となり、明治12年9月24日、「官社神社」として再興され、村社に列せられた。


官舎神社

鎮座地 度会郡小俣本町1446番地
主祭神 建御雷之男神 経津主神 天児屋根命 姫神
大 祭 祈年祭2月11日(お頭神事)
例祭9月15日 諸祷祭11月23日
社 宝 藤堂和泉守寄進状(元和3年<1617>・小俣町文化財)ほか
延暦16年(757)8月3日、離宮院が創設された時、神宮祭主大中臣朝臣諸魚らが中臣氏祖神・春日明神を大仏山東麓津島崎から離宮院西方に遷座。平安・鎌倉時代は、延喜式内「官舎神社」と同じ神として、歴代大宮司により氏神祭が行われました。15世紀後半の離宮院廃絶に伴いこの社も廃れ、中世末から、近世にかけては社殿もないまま離宮の神としてまつられていました。寛文3年(1663)、大宮司中臣精長が、離宮の一角に中臣氏社を再興、離宮の神と一体のものとして明治に及びました。明治12年村社官舎神社再興、同14年八柱神社を合祀、昭和19年県社に昇格しました。
 社名は、大宮司の庁院や斎内親王の離宮の「官舎」に由来すると伝えられています。
 「離宮さん」の愛称、「旅の宮」「大漁宮」とも呼ばれ、航空・交通安全や漁業者の信仰を集めています。
御船石の由緒
当神社は、昔より大漁の神として漁人の信仰厚く、この御船石を持ち帰り船中に奉安し、海上安全と豊漁をお祈りし、また、身につけて作業の安全を祈願します。お参りの時は前の石を返納し新しい石を奉持して帰ります。

社頭掲示板



官舎神社

宗教法人官舎神社
創立 延暦16年(757)8月3日
この社は、もと 宮司家中臣氏の氏神だとされている。
桓武天皇の延暦16年(757)に離宮院が伊勢からこの地に遷し造営されたとき、神宮祭主大中臣朝臣諸魚らが大仏山東麓に古くから祀っていた中臣神社(春日社)を離宮院の境内に奉遷し、式内官舎神社と改称した。
社号は、その社地が離宮院の官舎のそばで官舎から管掌する神社であったからだといわれている。
承和6年の離宮院大火災を免れ、永く中臣氏の氏神祭が執り行われていたが、戦国時代の乱れに伴い、離宮院の荒廃と共に社殿も朽ち果てて石塁だけ残る。
徳川中期、大宮司精長がこの石積みをわが氏神の旧跡と知って小社殿を復旧、明治の初めまで10人の禰宜が勤仕していたが、いずれも伊勢に移住し、時の流れとともに再びさびれていった。幸い当町出身の神職吉村氏がこの有様を憂い、かろうじて神社の維持に努めた。
明治12年村社格になり、明治43年には各字の無格社を合わせ祀る小俣神社(八柱神社)を合祀。昭和19年県社に昇格したが同21年社格廃止で宗教法人官舎神社となる。

社頭掲示板




官舎神社

式内社 官舎神社 
御鎮座地 度合都小俣町本町 
御祭神 建御雷之神 経津主神
    天児屋根命 姫神
    多紀理毘売命 市木島比売命
    多岐都比売命 猿田彦命 
    建速須佐之男神 天忍穂耳命
    天之菩卑能命 天津日子根命
    活津日子根命 熊野久須昆命 
    倉稲魂命 大己貴神
    大田命 大宮女神
    保食神 金刀比羅神
    不詳一座
宝物(神宝庫収蔵)
獅子頭 木製 舞衣つき、一伯 作者年代不詳
天狗面 木製 一伯 作者年代不詳
御太刀 一口 二尺六寸五分 勢洲田丸住人 藤原永利
    一口 帳一尺八寸 無銘、作者年代不詳
古文書 ○一、元和3年十月二十六日 藤堂和泉守
     高二十三石四斗 寄進の書
    ○一、慶長十七年六月四日 稲棄大夫通吉
      離宮,八王子神主宛寄進状
    一、寛文9年九月 久野丹波守
      離宮境内一円 安藤帯力長
      立入殺生停止の書
    離宮院考証 御巫清直筆
大湯釜 鉄製、直径二尺二寸
       高 二尺八寸 作者年代不詳
注○印は小俣町指定文化財

離宮院跡
大正13年2月9日国史跡に措定。措定面積約35000平方メートル。離宮院は、斎王(斎内親王)の離宮だけでなく、駅使院(度合駅家)と大神宮司の政庁とをあわせた一大官庁群であった。
離宮院が、度合都沼木村高河原(現伊勢市宮後町のあたり)から湯田郷宇羽西村(この名は現存しない〉の現在地に移されたのは延暦16年(797)であるが、廃絶の時期ははっきりしない。斎宮寮を参考にすると14世紀の初等には衰えていたものとみられる。斎王は、神宮の三節祭(6・12月月次祭、9月神嘗祭奉)のとき、祭王宮と内宮との中間点であるこの離宮院を宿所(三泊)された。離宮院には内院と外院があり、内院には南門などがあった。離宮院が常斎宮であった天長元年(824年)から承和6年ころ(足かけ16年)には百以上の建物が立ち並ぶ広大なものであった。
仁明天皇承和6年10月(839)の大火災て境内建物の大半は灰じんに帰し、その一部の復旧けできたが、世の移り変わり、制度の改廃や戦国時代の世の乱れにあって森林と化した。
明治時代になって国鉄参宮線の敷地化に伴い、境内跡のおおかたは取り払われたり畑地になったり、いままでは官社神社境内に土累(築垣)だけがかろうじて残りその遺跡をとどめている。その境内の大半も町の手で離宮公園に開発され、町民にとってがけがえのない緑のスペースとして、あるいは四季析々ありし昔を偲んで散策する人の姿が絶えない。

官舎神社
この社は、もと大宮司家中臣氏の氏神だったとされる。
天平勝宝8年に、ときの大神宮司従5位津島朝臣子松が、奈良の春日社を当地津島崎(大仏山東麓、いまの通称津島堰あたり)に中臣氏の祖神として勧請し、中臣社または春日社として祭っていたのに始まる。
桓武天皇の延暦16年、離宮院が伊勢から此の地に遷し造営されたときの神宮祭主大中臣朝臣諸魚らが、津島崎から中臣氏社を離宮院の境内に奉遷し、式内官舎神社と改称した。社号はその社地が離宮院の官舎のそばで、官舎から掌握する神社であったからだと言われている。
承和6年10月、離宮院の大火災があったが、等神社はその災をのがれ、長く中臣氏の氏神祭が執り行われていた。しかい、戦国時代の世の乱れに伴い、離宮院の荒廃とともに社殿も朽ちはて石塁だけが残ることとなった。
寛文3年(1663)、大宮司大中臣清長がその石積みを見つけ、わが氏神の旧跡だと知って小祠を再興、明治の始めまで一頃は10人の禰宜が勤仕するほどだったが、時の流れと共に伊勢に移住し、再び寂れていった。幸い当町出身の神職吉村氏がこの有様を憂い、かろうじて社の維持につとめた。
その後、明治12年9月24日村社格を指定され、同43年3月26日には各字の無格社を合わせ祀る小俣神社(8柱神社)を合祀、昭和19年11月20日県社に昇格されたが、同21年の社格廃止により、同27年12月20日宗教法人官舎神社となった。

由緒書




官舎神社

この社はもと大宮司家中臣氏の氏神だったとされている。
 天平勝宝8年に、ときの大宮司従五位津島朝臣子松が、奈良の春日社を当地津島崎(大仏山東麓、いまの通称津島堰あたり)に中臣氏の祖神として勧請し、中臣社または春日社としてまつったのに始まる。
 桓武天皇の延暦16年、離宮院が伊勢からこの地に遷し造営されたときの神宮祭主大中臣朝臣諸魚らが、津島崎から中臣氏社を離宮院の境内に奉遷し、式内官舎神社と改称した。社号は、その社地が離宮院の官舎のそばで、官舎から管掌する神社であったからだと言われている。
 承和6年10月、離宮院の大火災があったが、当神社はその災を免れ、長く中臣氏の氏神祭がとり行われていた。しかし、戦国時代の世の乱れに伴い、離宮院の荒廃とともに社殿も朽ち果て石塁だけが残ることとなった。
 寛文3年(1663)、大宮司大中臣精長がその石積みを見つけ、わが氏神の旧跡だと知って小祠を再興、明治の初めまでひところは十人の禰宜が勤仕するほどだったが、時の流れとともに伊勢に移住し、再びさびれていった。幸い当町出身の神職吉村氏がこの有様を憂い、かろうじて社の維持に努めた。
 その後、明治12年9月24日村社格を指令され、同43年3月26日には各字の無格社をあわせ祀る小俣神社(八柱神社)を合祀、昭和19年11月20日県社に昇格されたが、同21年の社格廃止により、同27年12月20日宗教法人官舎神社となった。
 当神社は「離宮さん」「旅の宮」の愛称で親しまれ、昔は伊勢の要人たちまでが旅へ出るときわざわざ官舎神社へお参りをし、お受けしたお守りをしっかり肌身に着けて出発したという。また、いつの頃からか「大漁宮」とも呼ばれ、いまも白塚や河芸、伊勢の漁業者が海上安全・大漁満足の祈願に訪れている。

三重県神社庁



官舎神社

官舎は音読也〇祭神春日四坐〇離宮院西に在す、今中臣氏社、或春日社と称す、(神名略記)〇神宮雑例集云、右大臣清麻呂奉遷春日社於摂津國島下郡、須久神社是也、宮司津島小松亦奉遷度會郡津島崎、延暦16年立離宮院於湯田郷之日、亦奉遷彼院西方、
神名略記伝、4月11月上申日祭之、神名帳云、官舎神社蓋此乎、寛文3年精長朝臣再興、

神社覈録



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