式内社川原大神社は竹ケ鼻の南西の畑の中の小祠「川原社」としてあった。 『三重県神社誌』によると、箕曲郷匂村三津社に、河原大社、水饗社、河原饗社の三社が祀られていたが、明応の大震災により人家田畑が流出し、水饗社を竹ケ鼻に遷して大口神社と改称したという。 河原大社は明治11年7月7日村社大口神社に合祀。 その後明治40年大口神社他は下野、小木地区の神社と共に箕曲村の箕曲神社に合祀になつた。 大口神社の旧社地一帯には昭和15年神鋼電機が工場を建設した。(小祠の旧位置は不詳) 昭和24年頃、箕曲神社から大口神社のみを分祀することとなり、神鋼電機東隣の、もと七本竹社の小祠に合わせて祀った。 |
由緒 大口とは、伊勢三川の宮川、五十鈴川、瀬田川の合流する地点が大水戸口(おおみなとぐち)を形成するが故に、大湊といい、また上下二字をとって大口と称したものである。 『二宮使解』の元久元年(1204年)10月條に「抑度会郡大湊ノ平湯浜并宮河ノ合流、字ハ子勾埋地壹処、四至ハ限リ2東ハ松原ヲ1南ハ限ル2大口ニ1」とある。 また、大湊の『大田家文書』には、「昔時度会郡箕曲郷大湊の戌亥に勾村あり。 同村の分村にして、長徳3年(997)の頃大口村と称し一村たりし、明応7戌午年地震津波のため人家田畑流失して其地を再興の目途之無に據り同村の人民若干諸村へ住居し、その中八戸ばかり人民謀りて氏神水饗社を奉載して同郡勾村字升鼻の洲寄りに住家を構え、一村の姿をなし竹ヶ鼻村と称し、氏神水饗社の称号を換えて旧村名大口神社と唱えたり云々」とあり、竹ヶ鼻村の発祥と大口神社の由緒がうかがえる。 往古、水郷の守り神として勾村字三津社という地に河原大社、水饗社、河原饗社という三社の水に関する神が祀られていたが、明応の大震災により、水饗社を竹ヶ鼻に遷移し、大口神社と改称したというのである。 明治に入ると、神社合祀令により、同41年4月17日に村社小木社(現、箕曲神社)に合祀される。 しかし、昭和20年11月には、箕曲神社から分祀され、大口神社として奉斎され今日に至っている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大口神社 大口とは、伊勢三川の宮川、五十鈴川、瀬田川の合流する地点が大水戸口(おおみなとぐち)を形成するが故に、大湊といい、また上下2字をとって大口と称したものである。『二宮使解』の元久元年(1204)10月條に「抑度会郡大湊ノ平湯浜并宮河ノ合流、字ハ子勾埋地壹処、四至ハ限リ2東ハ松原ヲ1南ハ限ル2大口ニ1」とある。 また、大湊の『大田家文書』には、「昔時度会郡箕曲郷大湊の戌亥に勾村あり。 同村の分村にして、長徳3年(997)の頃大口村と称し一村たりし、明応7戌午年地震津波のため人家田畑流失して其地を再興の目途之無に據り同村の人民若干諸村へ住居し、その中8戸ばかり人民謀りて氏神水饗社を奉載して同郡勾村字升鼻の洲寄りに住家を構え、一村の姿をなし竹ヶ鼻村と称し、氏神水饗社の称号を換えて旧村名大口神社と唱えたり云々」とあり、竹ヶ鼻村の発祥と大口神社の由緒がうかがえる。 往古、水郷の守り神として勾村字三津社という地に河原大社、水饗社、河原饗社という三社の水に関する神が祀られていたが、明応の大震災により、水饗社を竹ヶ鼻に遷移し、大口神社と改称したというのである。 明治に入ると、神社合祀令により、同41年4月17日に村社小木社(現、箕曲神社)に合祀される。しかし、昭和20年11月には、箕曲神社から分祀され、大口神社として奉斎され今日に至っている。 三重県神社庁 |