志等美神社
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   【延喜式神名帳】志等美神社 伊勢国 度会郡鎮座

   【現社名】志等美神社
   【住所】三重県伊勢市辻久留1-172-2
       北緯34度29分21秒,東経136度41分22秒
   【祭神】木神久久能知神(志等見名神)
       『神名秘書』『類聚神祇本源』木神
       『神名略記』『勢陽埋諺』句々廼馳命
       『延喜式神名帳僻案集』葦津姫命
       『神名帳考証再考』埴安神
       『神社覈録』草野姫命
       『勢陽五鈴遺響』未詳

   【例祭】10月 19日神嘗祭
   【社格】載官帳名十六処の1
        幣帛を伊勢国より宛行われる十三社中の1
        大治3年(1128)従四位下

   【由緒】創祀不詳
       中世廃絶
       寛文3年(1663)大宮司大中臣(河辺)精長が再興

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地は当初鎮座の地
        寛文3年(1663)外宮宮域内の岩戸坂に再興
        元禄5年(1692)「ハナヒシゲ山」に移造
        明治16年現社地に鎮座

   【祭祀対象】堤防を守護する神
   【祭祀】中世「二俣八王子社」「牛頭社」と称した
   【社殿】正殿/神明造板葺南面
       玉垣御門/猿頭門扉付・玉垣/連子板打・鳥居/神明造

   【境内社】

外宮の摂社16社のうち第7位である。
伊勢市辻久留の上社の社地と隣あわせに鎮座している。
鳥居をくぐると三つの社があるがその一番奥である。
境内にある二つの玉垣のうち右手には末社・打縣神社、左手に摂社・志等美神社と大河内神社が鎮座している。
向かって左の社殿が志等美神社、右の社殿が大河内神社である。
「蔀野井庭神社」(しとみのいばじんじゃ)と記す文献もあり、蔀野は鎮座地周辺の原野の名前。志賀剛は、当社の「しとみ」とは動詞「しとむ」の連用形が名詞化したもので、「水に浸る」「水に浸かって濡れる」意であると解釈した。
当社は水の漬くような川沿いにあって、その堤防を守護する神として祀られたもの。
大治3年6月10日、 宮川堤防の守護神として志止見名神に従五位下、 打懸名神・大河内神に従四位下の神位が奉じられた。
神宮の諸社中、 神階のあるのはこの三社だけである。
中世廃絶し、再興に当たり社地は変遷した。
寛文3年(1663)大宮司大中臣(河辺)精長の精力的な摂社再興事業の社地探査でも社地不明とされ、仮に外宮宮域内の岩戸坂、高倉山天岩窟へ至る坂の途中に同じく外宮摂社の大河内社とともに建てられた。
元禄5年(1692)の造替の際、精長の次男長春によつて辻久留の南方山上、「ヤバコ」・「ハナヒシゲ山」と呼ばれた地に移造した。(三郷山中現二俣町字矢畑付近の山の中腹と推測)
種々議論のなされた結果、明治16年現社地辻久留の上社の地へと奉遷した。
現社地上社の地を、志等美社の旧社地として是認し得ると思われる。
上社は、 志等美神社の旧跡に付近の人々が産土神として「牛頭社」を祀ったものである。


上社

当社地は住古豊受大神宮の摂社志等美(しとみ)神社、大河内(おおかうち)神社、末社打懸(うちかけ)神社が鎮座していた所であるが、戦国時代に久しく殿社の造営もなく、廃退していた所を、後世に至って付近の住民が、その跡にの産土神として崇めたものらしい久々能智神、大山祇神、埴安神、宇迦之御魂神を奉祀せりと伝えられています。古記に、境内社並社は打懸神社の旧地で、同明神を奉祀し、山神社は大河内神社の旧地で大山祗神を奉祀したとあるから、恐らく当社地は往古の志等美神社の旧跡であろうと思われている。
尚、現在、外宮摂社志等美神社以下三社は当社に隣接して鎮座している。
社号に関しては、永正16年(1519)9月の畠券には「二俣社」、大永6年(1526)12月の田券には「二俣八王子社」、天文6年(1537)11月の畠券には「牛頭社」と称している。
そして、明治3年10月に「上ノ社」と改称し、今日に至っている。
また、合祀に関しては、明治42年3月7日に、浦口町字堤世古鎮座の稲荷社(宇迦之御魂神)、同町字堤世古五軒家鎮座の土井稲荷社(同)、同町字山名鎮座の大杉稲荷(同)、二俣町字田原鎮座の田村社(神名不詳)、同町字会所世古鎮座の二俣菅原社(菅原道真)を、同8日には、境内社稲荷社(宇迦之御魂神)、同山神社(大山祗神)、中島町字小川町鎮座の浅間社(神名不詳)、同町字京町鎮座の八幡社(譽田別尊)、同町字中島鎮座の掃守社(天忍漁人命)、同町字風呂屋ノ世古鎮座の小川社(神名不詳)をそれぞれ境内社並社に合祀し、さらに同12日並社を本社に合祀している。
また、戦後は、昭和54年7月11日に徳川山鎮座の山神(神名不詳)を合祀し、昭和59年2月に上天神を、同9月に櫛玉宮を境内に奉祀している。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




上社

むかし、当社地は、外宮の摂社志等美神社・同大河内神社・同末社打縣神社があったと考えられています。
 しかし、戦国時代、久しく殿舎の造替もされず荒れはてていたのを、このあたりの住民がこの地の神(産土神)としてまつって今日に至りました。
 その故か主祭神は右神社のご祭神と同じです。しかし当社は、古く八王子または牛頭社と称され、現に牛頭さんと呼ばれています。
 宮川堤防を守護している神も当社のご祭神です。

社頭掲示板



志等美神社

志等美神社(しとみじんじゃ)豊受大神宮摂社
久久能智神(くくのちのかみ)
祭神は木の神で宮川堤防の守護神、久久能智神。御垣内の向かって右は大河内神社である。社域に入いり、向かって右の独立した御垣内に打懸神社がご鎮座されている。神宮摂末社の中で神位を贈られているのは、これら3社のみである。奥の神社は、産土神をまつる地元の神社・上社である。

神宮会館



志等美神社

志等美は假字也○祭神木神(神名秘書)○旧趾廃亡す、今神宮西宮川邊に在す、(神名略記)〇式四、(伊勢大神宮)渡会宮所摂十六座の第七に載す、 神祇本源云、在沼木郷山幡村、東大河内、中志等美、西打懸、志等美、打懸同玉垣、」神名略記云、山幡村今則亡、故寛文以社地難知、假建之宮山中、神宮雑例集云、外宮遠四至、西限山幡淵、以之考則知、山幡村神宮西宮川内、且拠畠券有山幡者、而元禄遷此社于神宮西宮川邊山幡畠上山、然旧趾猶未著、同略記に、祭鹿葦津姫命(木神按志等美葦津女之略語)と云へり、連胤按るに、鹿葦津姫命とも差定めがたくや、神名秘書に、蔀野社木神、清野社草神とあれど、御鎮座本紀、清野社、屋船命、草木霊、とみるを見れば混らはしけれど、ごは木神なる事明か也、然れば蔀野社こそ草神にて、草野姫命なるべけれ、猶考ふべし、
神位
神祇本源云、大治3年6月10日、奉授從四位下、爲防河堤守護也

神社覈録



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