内宮の摂社27社のうち第15位である。 旧二見町役場の前。道路の反対側。音無山の西の麓に鎮座。叢林目立つ。 榎村神社としての伝承は無い。 式内社調査報告は榎村神社は所在地不詳社としている。 日本「神社」総覧では、当社が挙げられているが詳細は不明。 当社は式内社大国玉比売神社・式内社榎村神社の論社である。 薗田守良は堅田神社の西方に「大国玉比売神社」があったのではないかとしている。 堅田神社は延暦23年(804)の皇大神宮儀式帳にみられる古社。 堅田というのは潟田 (かただ)ということで海岸の入江になっている所の田を指していったもので、 そこを開拓し支配する国神 (くにつかみ)なる佐見都日女命 (さみつひめのみこと)を奉祀した神社である。 垂仁天皇の御世、 倭姫命がこの地にきたとき、 堅塩を奉りし縁故で、 この神社を定められたといわれている。 その時、 大若子命は御塩浜と御塩山を定めたとある。 このことは、 この神社が神宮の製塩と深く関わってきたいわれであり、祭神の佐見都日女の神名は佐見山や鮫川と関係がある。 |
堅田神社 堅田神社(かただじんじゃ) 皇大神宮摂社 佐見都日女命(さみつひめのみこと) 祭神はこの地方の土地の神、佐見都日女命。倭姫命に堅塩(かたしお・焼き固めた塩)を奉った故事により定められた。 神宮会館 |
堅田神社 鎌倉時代、女西行といわれた歌人後深草院二条は伊勢・二見を訪れ 「佐美の明神と申すやしろは なぎさにおわします。それより舟にのりて、答志の島、御饌の島、通るしま(潜り島)などを見に行く」とこの神社のことにふれています。 堅田神社のあたりは長く塩田跡として放置されていましたが、江戸幕府成立直前の天正年間に立石(夫婦岩)への禊参拝客目当てのお茶屋さんが塩田跡地にでき始めたそうです。それが今の二見旅館街、茶屋地区の始まり…、なのだそうです。 http://hamasanguu.seesaa.net/article/86579679.html |
榎村神社 榎村は衣武良と訓べし○祭神在所等詳ならず(或説云、今江村乎、奥定村乎、また奥定付江馬出は多気郡に属す、再興云、榎村を江馬といふはむらの約まりなり、社所在の江馬山は大杉谷奥定村なり、) 連胤云、当社と上なる礒神社とは、当郡中にて二所大神宮所摂の中に漏れたり、其事詳ならず、猶礒神社の下見合すべし 神社覈録 |