大間国生神社
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   【延喜式神名帳】大間国生神社 伊勢国 度会郡鎮座

   【現社名】大間国生神社
   【住所】三重県伊勢市常磐1-1142
       北緯34度29分41秒,東経136度41分42秒
   【祭神】大若子命・乙若子命
       薗田守良『神宮典略』「祭神は傳へなければ知がたし」

       鎮座地の大間広を開拓した神であり、天日別命の子孫であるとされる。

   【例祭】10月 19日神嘗祭
   【社格】
   【由緒】倭姫命世記に雄略天皇22年創立とある
       早く廃絶し所在不明となつた
       正保2年(1645)桧垣常晨によつて再興

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地が当初鎮座の地とされる

   【祭祀対象】
   【祭祀】中世廃絶
   【社殿】正殿/神明造板葺南面
       玉垣御門/猿頭門扉付・玉垣/連子板打・鳥居/神明造

   【境内社】

外宮の摂社16社の第2位。
草奈伎神社域内に鎮座する。
板垣の中に、2社が鎮座されている。右が「大間社」で、大若命をまつり、左が「国生社」で、乙若子命をまつっている。
止由気大神宮儀式帳所載、 造宮使造替三社の一つである。
創立については、 倭姫命世記雄略天皇22年の條に、 「大若子命の社を定む、 大間社是なり」 とある。 なお、 神名祕書及び神祗本源所引の社記には、 本社の祭神を大若子命と弟(乙) 若子命の二柱としてある。
大若子命は天日別命の後裔で、 一名大幡主命という。 この地を支配してきたが、 天照大神を迎え奉ってこの地に宮柱太しきを立て、 所領献納を申し出た。 大同本紀には、 皇大神鎮座のとき、 大幡主命、 物部八十友の諸人等を率いて荒御魂宮地の荒い草木根刈掃い、 大石を取り平らげて大宮を定め奉ったという。
後、 功をもって大神主職、 神国造を兼ね、 子孫はその職を世襲し天武天皇のとき改めて豊受大神宮祢宜に補せられ、 明治維新に及ぶ。 いわゆる度会氏はこれである。
早く廃絶し所在不明となつた。しかし、廃絶した他の殆どの摂社が大宮司大中臣(河辺)精長の寛文3年(1663)の一連の再興事業によつて復興せられたのに比して、当社は早く正保2年(1645)一禰宜度会(桧垣)常晨によつて草名伎社とともに再興せられた。
大間国生神社は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月29日、宇治山田空襲により被災した。
現社地が古代の社地と同じであるかどうかについては近世にも議論があった。



大間国生神社

大間国生神社(おおまくなりじんじゃ) 豊受大神宮摂社
大若子命(おおわかこのみこと)
乙若子命(おとわかこのみこと)。
祭神はこの地方(今もこのあたりを大間広という)の国土生成の神二座、大若子命(おおわかこのみこと)と乙若子命(おとわかこのみこと)。皇大神宮ご鎮座に大功があった神々で、度会氏の祖である。御垣内の向かって右が大間社(祭神・大若子命)で、左が国生社(祭神・乙若子命)といわれている。社域に入いり、向かって左(西)の神社は草奈伎神社である

神宮会館



大間国生神社

大間は於保麻と訓べし、國生は前に同じ、○祭神大若子命、乙若子命、○沼木郷山田村(俗云大間鹿)に在す、(神名略記)○式四、(伊勢大神宮)度曾宮所摂十六座の第三に載す、○御鎮座本紀云、大若子命、一名大幡主命、御間神社是也己、」禰宜補任云、大若子命、一云、大幡主命、彦久良為命第一子也、越國荒振凶賊阿彦在天不從皇化、取平仁罷止詔天、標劒賜遣支、即幡主罷行取平天返事白時、天皇歓給天、大幡主名加給支、皇太神宮鎭坐伊勢國五十鈴河上宮之時、御供仕奉爲大神主、」及云、乙若子命、大若子命弟也、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇三代之御世、大神主仕奉、」神名略記云、東大間、西國生正殿二区、同玉垣、

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