往古 当社一帯は宮川の支流で、その河原の洲原にありと伝えられている。 古来 沼木郷全体の護りとして「大社」と呼ばれていたが後に、「須原の大社」となる。古文書によると 「須原」とは土地の名称で「沼木郷山田字須原」とあり山田村の一地区とされている。自然に成立した産土神で山田村八社の一つ 御巫清直は『二宮管社沿革考』では、川原坐国生神社の旧社地を伊勢市一之木の須原大社であるとしている。 |
由緒 当社は古来、「大社」とのみ称されていたが、近年「須原」の二字を加えて須原大社と唱えるようになった。 須原というのは、天福2年(1234)正月処分状によれば、「沼木郷山田村内の一地区」であり、既に天治元年(1124)に外宮禰宜に補せられていた度会高行を「須原の三」といい、その子忠行は、建仁2年(1202)に禰宜であったが「須原の長」とも称されていた。 このことからも、古くから須原の地名が存したことが判かる。 須原の邑の取部(地区)は、東は宮後田中世古豊川、南は中館表宮後利下之久保、西は大世古、北は一之木走下となっていた。 これは現在の氏子地域とほぼ重なっている。 即ち、当社の創祀については不詳であるが、往古より須原地区の産土神として奉祀とされて来た社であることが判る。 また、合祀祭神には、大山祗神(元社地宮後町)、木花開耶姫命(元社地大世古町北宮川)、菅原道真公(元社地本町)、菅原社(元社地一志久保町)、久保菅原社(元社地大世古町)、梅林菅原社、拝田社があり、現在に至っている。 尚、当社には、神宮式年遷宮に際して、御造営に伴う古材の拂下げを受て、神宮の還宮の二年後に、当社の社殿、鳥居等を造替する御遷座祭を執り行なうのが古例となっている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
須原大社 須原とは「洲原」で、宮川の支流清川のことで、このあたりが一面の「河原」であったことを意味しているといわれます。 外宮の門前町山田には大きな勢力として、須原方、阪方、岩淵方などがありました。 須原大社は、この須原方の産土神でありました。 ご祭神の八王子とは、アマテラスオオミカミがスサノオノミコトと誓約した時に生まれたとされる五男三女の神々のことをいいます。 社頭掲示板 |
須原大社 お頭舞神事(獅子舞)は 2月11日祭儀の後 社を出発 氏子地区を終日かけて巡回 夕闇迫る頃 社に戻り 神前に於いて 剣の舞を得て終了する。 この舞の歴史は 凡そ五百年前に遡り氏子により引き継がれてきましたが、戦後は一時舞い方を他町に依頼していましたが、昭和50年より再び氏子青年により奉仕されることになり今日まで続けられている。 由 緒 往古 当社一帯は宮川の支流で、その河原の洲原にありと伝えられている。 古来 沼木郷全体の護りとして「大社」と呼ばれていたが後に、「須原の大社」となる。古文書によると 「須原」とは土地の名称で「沼木郷山田字須原」とあり山田村の一地区とされている。自然に成立した産土神で山田村八社の一つ 三重県神社庁 |