粟皇子神社
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   【延喜式神名帳】粟皇子神社 伊勢国 度会郡鎮座

   【現社名】粟皇子神社
   【住所】三重県度会郡二見町大字松下字鳥取1687-2
       北緯34度29分46秒,東経136度48分55秒
   【祭神】淡海子神
       『式内社調査報告』須佐乃乎命・御玉道主命

   【例祭】10月 23日神嘗祭
   【社格】
   【由緒】倭姫内親王定祝
       中世廃絶
       元禄5年(1692)再興

   【関係氏族】
   【鎮座地】この地が当初鎮座の地であるかは不詳
        『儀式帳』四至「東西北大海、南山」合致しない
        元禄5年(1692)鳥取古墳群の真中付近に再建
        正徳2(1712)現在の地に移転

   【祭祀対象】御贄奉仕の神
   【祭祀】中世廃絶
   【社殿】正殿神明造板葺
       玉垣御門猿頭門扉付・玉垣連子板打・鳥居

   【境内社】

内宮の摂社27社のうち第19位である。
社地は「池の浦」と呼ばれる入り江の海浜(通称「鳥取(とりとり)の浜」)にあり、北西ヘは砂浜が続いている。ホテルの崖下付近にある。 『倭姫命世記』に伝えられるところは、粟皇子の神が御贄奉仕の神として格別な意義が認められていた。
垂仁天皇の御宇〜倭姫命の皇大神を奉載して御遷幸の時、 淡海子神が御贄を奉った功により、 この社を定めたと伝えられている。 伊気浦 (いけのうら)の海岸鎮護の神を御祭りしたもの。
中世廃絶して社地不詳となる。
当初池ノ浦の中にある中之島にあったといわれている。 元禄5年(1692)に、 この中之島では神社は建てられないということで、 中之島が間近に見える鳥取の浜辺へ社地六間四方を定めて再興した。 (この地は鳥取古墳群の真中付近海岸よりと推定されている。)
正徳2年(1712)に宮地が波打際まで八間ぐらいで高潮の被害を受けたので、 現在の宮地に移転した。
『儀式帳』の示す四至は「東西北大海、南山」となっており現在地と合致しない。
御巫清直は鳥羽の小濱村(現、烏羽市小浜町)であり、そこの産神の地が、元來の粟皇子神社の地としてふさわしいと主張しているが不詳。 神前灯台の崖下に潜島という小島があり、干潮時にしか訪れることのできない石門がある。


粟皇子神社

粟皇子神社(あわみこじんじゃ) 皇大神宮摂社
須佐乃乎命御玉道主命(すさのおのみことのみたまのみちぬしのみこと)
祭神は海岸鎮護の神と伝えられる、須佐乃乎命御玉道主命。別名、淡海子神(あわみこのかみ)。池の浦の西岸の岬に鎮座し、白砂青松の海岸から飛島が望まれる美しい景観の社域である。倭姫命に御贄(みにえ・神様にお供えする神饌)を奉った故事により定められた。

神宮会館



粟皇子神社

粟皇子は阿波美古と訓べし〇祭神道主命〇伊氣郷伊介島に在す、(神名略記)〇式四、(伊勢大神宮)大神宮所摂廿四座の第十六に載す、〇倭姫世記云、從其以西之海中爾、在七ヶ島、從其以南塩淡甘支、其島乎、淡良伎之島号支、其処参相弖、御饗仕奉神乎、淡海子神止号弖、社定給支、」御鎮座本紀云、氷沼道主、素戔鳴尊孫也、亦號粟御子神、』儀式帳云、粟御子神社、称須佐乃乎命御玉、道主命、形石坐、倭姫内親王定祝、

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