内宮の摂社27社のうち第11位である。 神社の境内北側は五十鈴川が流れ、神社の前の道路は皇大神宮御常供田(神田)ヘの神事道である。 四郷小学校北、皇大神宮御常供田の北西に鎮座する。 境内には、同じく式内社 皇大神宮摂社・大土御祀神社が鎮座している。前の方の神社が大土御祖神社、 後ろの方が国津御祖神社である。 『皇大神宮儀式帳』に「坐地大土神社之四至内」と見えるから古来、社地の位置は大土御祖神社と同域である。 寛文3年(1663)再興のとき大土御祖神社の旧社地の特定が容易であったため、同じ社地の国津御祖神社も旧地に復興された。 祭神は国生の神の子、 宇治比売命と田村比売命をお祭りしている。 国津御祖神というのは、 楠部の里を守護する国の神のことで、 その神名を称えていうときは宇治比売命といい、 また楠部の守り神として田村比売命と申し上げる。 この付近を昔から宇治狭長田といい、 宇治六郷といって、 岩井田、 岡田の上二郷 (現在の宇治)、 北中村、 楠部、 朝熊、 鹿海の下四郷 (旧四郷村) との村々が五十鈴川に沿い、 田野、 村落を形成している。 ここには幾多の神々が鎮祭されているが、 そのうち、 楠部の御神田を中心として、 ここに大土御祖神と国津御祖神とが祭られていることは、 ここが狭長田の中心であり、 古代生活の根拠地であったことを示している。 神社の存在は、 そのまま古代生活の精神的象徴であり、 中心であることを看取することができる。 また、 これらの神社が倭姫命の当時に鎮座されたことは、 皇大神宮の鎮座と並んで、 古くからこの土地の産土神として祭られていたことを示している。 寛文3年現地に再興。 |
国津御祖神社 国津御祖神社(くにつみおやじんじゃ)皇大神宮摂社 宇治比賣命(うじひめのみこと) 田村比賣命(たむらひめのみこと)。 祭神はこの土地の産土神(うぶすなのかみ)二柱、宇治比賣命(うじひめのみこと)と田村比賣命(たむらひめのみこと)。末社の葦立弖神社(あしだてじんじゃ)祭神は玉移良比女命(たまやらひめのみこと)がご同座されている。手前の神社は大土御祖神社である。 神宮会館 |
國津御祖神社 國津は久爾都と訓べし、御祖は前に同じ、〇祭神宇治比売命村田(或は田村に作る)比売命、○宇治郷大土御祖神社地内艮に在す、(神名略記)○式四、(伊勢大神宮)大神宮所摂廿四座の第八に戴す、〇儀式帳云、称国生神児宇治比売命、形石坐、又比売命、形無、倭姫内親王御世定祝、 神社覈録 |