堅田神社
かただじんじゃ
大国玉比売神社の論社
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   【延喜式神名帳】榎村神社 伊勢国 度会郡鎮座
   【延喜式神名帳】大国玉比売神社 伊勢国 度会郡鎮座

   【現社名】堅田神社
   【住所】三重県度会郡二見町大字江字堅田442
       北緯34度30分20秒,東経136度46分47秒
   【祭神】佐見都日女命
       佐見都日女命は土地の神とされる。伊勢国の大国玉、すなわち伊勢津彦の娘となる。

   【例祭】10月 23日神嘗祭
   【社格】
   【由緒】『儀式帳』には記載が無く不詳
       一時祭祀が中断
       永享6年(1434)荒木田氏経が再興

   【関係氏族】
   【鎮座地】此の地が大国玉比売神社の地であるかは不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】正殿
       玉垣御門・玉垣・鳥居

   【境内社】

内宮の摂社27社のうち第15位である。
旧二見町役場の前。道路の反対側。音無山の西の麓に鎮座。叢林目立つ。
大国玉比売神社としての伝承は無い。
大国玉比売神社は延喜式には記載があるが『儀式帳』には記載が無く、近世に至つてその所在について考証がなされているが、確定しておらず、また社殿の復興もされていない。
当社は式内社大国玉比売神社・式内社榎村神社の論社である。
薗田守良は堅田神社の西方に「大国玉比売神社」があったのではないか、と述べている。
堅田神社は延暦23年(804)の皇大神宮儀式帳にみられる古社。
堅田というのは潟田 (かただ)ということで海岸の入江になっている所の田を指していったもので、 そこを開拓し支配する国神 (くにつかみ)なる佐見都日女命 (さみつひめのみこと)を奉祀した神社である。 垂仁天皇の御世、 倭姫命がこの地にきたとき、 佐見都日女命は倭姫命に堅塩を奉った。倭姫命はこれを喜び、堅田神社を定めた。ただし、佐見都日女命は倭姫命に進んで堅塩を奉じたわけではなく、倭姫命の質問に一切答えず、黙って堅塩を奉じることで、自らの開拓した土地を差し出すことにせめてもの抵抗を示したのである。 その時、 大若子命は御塩浜と御塩山を定めたとある。
このことは、 この神社が神宮の製塩と深く関わってきたいわれであり、祭神の佐見都日女の神名は佐見山や鮫川と関係がある。
薗田守良は堅田神社の西方に「大国玉比売神社」があったのではないか、と述べている。


堅田神社

堅田神社(かただじんじゃ) 皇大神宮摂社
佐見都日女命(さみつひめのみこと)
祭神はこの地方の土地の神、佐見都日女命。倭姫命に堅塩(かたしお・焼き固めた塩)を奉った故事により定められた。

神宮会館



堅田神社

鎌倉時代、女西行といわれた歌人後深草院二条は伊勢・二見を訪れ
「佐美の明神と申すやしろは なぎさにおわします。それより舟にのりて、答志の島、御饌の島、通るしま(潜り島)などを見に行く」とこの神社のことにふれています。
堅田神社のあたりは長く塩田跡として放置されていましたが、江戸幕府成立直前の天正年間に立石(夫婦岩)への禊参拝客目当てのお茶屋さんが塩田跡地にでき始めたそうです。それが今の二見旅館街、茶屋地区の始まり…、なのだそうです。

http://hamasanguu.seesaa.net/article/86579679.html



大國玉比売神社

大國玉は於保久爾多麻と訓べし、比売は假字也、〇祭神大国玉命、佐々良比売命、○在所詳ならず、亦堅田社ど称す、(考証)○式四、(伊勢大神宮)大神宮所摂廿四座の第十三に載す、○儀式帳云、称東方堅田神社、形石坐、倭姫内親王代定祝、」神名略記云、儀式帳津長下大水上載堅田神社無大國玉比売神社、神祇本源云、大國玉比売社、長寛検録文無宝殿敷地、按堅田神社即大国玉比売也、祇言見依此二神鎮座名二見歟、長寛不考合二名其言如此、

神社覈録



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