奈良波良神社
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   【延喜式神名帳】奈良波良神社 伊勢国 度会郡鎮座

   【現社名】奈良波良神社
   【住所】三重県度会郡玉城町宮古字矢倉833
       北緯34度28分19秒,東経136度37分29秒
   【祭神】那良原比女命
       儀式帳に「称大水上児那良原比女命。形石坐。」とある。
       地名を御名とする女神と解される。同地域の川水を司る地主神と見るベきであろう。

   【例祭】10月 19日神嘗祭
   【社格】
   【由緒】倭姫命による創立と傳承
       延暦23年(804)撰進の皇太神宮儀式帳にも官帳社十五処として見える
       中世廃絶
       寛文3年(1663)大宮司大中臣精長現在地に再興

   【関係氏族】
   【鎮座地】中世廃絶
        寛文3年(1663)大宮司大中臣精長現在地に再興

   【祭祀対象】
   【祭祀】中世廃絶
   【社殿】正殿/神明造板葺西面
       玉垣御門/猿頭門扉付・玉垣/連子板打・鳥居/神明造

   【境内社】

内宮の摂社27社のうち第22位である。
倭姫命が定めた神社で、祭神はならの木の原野であったこの辺りの産土神といわれている。
祭神は那良原比女命、 儀式帳によれば、 大水上命の子であると伝えている。 楢原の地域の田野潅漑の御田の守護神である。
ここ宮古の地は、 「外宮神領目録」 に 「宮古御薗」 とあり、 古くから外宮の神領地となっていたところである。
中世廃絶して所在不明となり、寛文3年(1663)大宮司大中臣(河辺)精長のが現在地に再興したが、古書の記載と合致せず、東南500mにある広泰寺境内に接する南方の丘陵上に、上宮古神社と称する小祠が残る。石積の素朴な壇上に安置された方一尺ほどの社で、これが旧地とする説あり。


摂社再興

寛文3年(1663)大宮司大中臣(河辺)精長は、勘文を祭主に奉呈、同3月には山田奉行所の諒解を得て、摂社再興に着手した。その20日には紀州藩の内意を窺ひ、同藩領内の摂社再興について諒解を取得してゐる。特に、当社の如く廃絶後すでに数百年を経て社地不明のものについては、精長は実地検分して遺跡を探り、文献による考証、或は古老の意見を徴収するなどして社地を選定したが、これには出口延佳ら神宮碩學の協カがあつたといふ。同年8月28日より、城田郷など紀州領内の實地踏査がなされ、かくて9月8日造営の功は成つて奈良波良神社が再興されたわけである。

式内社調査報告



奈良波良神社(ならはらじんじゃ)

奈良波良神社(ならはらじんじゃ) 皇大神宮摂社
那良原比女命(ならはらひめのみこと)
祭神はこの地方の田野の守護神と伝えられる、那良原比女命。社名からこのあたりが楢(なら)の木の原野であったことがうかがえる。享保甲辰(1724)に紀州藩が建てた禁殺生石がある。

神宮会館



奈艮波良神社

奈良波良は假字也○祭神那良原比女命〇城田郷宮子村に在す(神名略記)○式四、(伊勢大神宮)大神宮所摂二十四座の第十八に載ず、〇儀式帳云、橘原神社、称大水上児那良原比女命、形石坐、倭姫内親王定祝、

神社覈録



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