月夜見宮
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   【延喜式神名帳】月夜見神社 伊勢国 度会郡鎮座

   【現社名】月夜見宮
   【住所】三重県伊勢市宮後1-1006
       北緯34度29分34秒,東経136度42分22秒
   【祭神】月夜見尊 月夜見尊荒御魂
       『神名秘書』月読御玉
       『類聚神祇本源』月夜見神社御玉 
       『神名帳考證再考』倉稻魂命
       『二宮管社沿革考』国生神
       『神宮典略』祭神不詳

   【例祭】10月 19日神嘗祭
   【社格】
   【由緒】白鳳2年(651)創建
       もとは外宮の摂社の首位
       承元4(1210)年に、別宮に昇格

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初より此の地に鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】廃絶無く継承されている
   【公式HP】 月夜見宮
   【社殿】正殿
       瑞垣御門・瑞垣・鳥居・握舎・宿衙屋・修祓所

   【境内社】

外宮の別宮。外宮の北御門から一直線の道を北へ400mのところにある。この道は通称「神路通り」と呼ばれ、神の通い路として神話の時代から存在していたもので、その道の真中は歩かないという風習があるという。
古くは高河原(たかがわら)と呼ばれ、農耕の神を祀る神社であったという。
白鳳2年の鎮座と伝える。
もとは摂社であったが、承元4年(1210)に宮号宣下があり、月夜見宮と称するようになった。



月夜見宮社

御祭神の月夜見尊ツクヨミノミコトは、天照大御神アマテラスオオミカミの弟神で、皇大神宮別宮の月讀宮ツキヨミノミヤにおまつりされている月讀尊ツクヨミノミコトと、御同神でありますが、当宮では、月夜見尊の文字が用いられております。
月夜見尊の御事については、日本書紀(元正天皇養老4(720)年奏進)の上巻に、伊邪那岐イザナギ命、伊邪那美イザナミ命二柱フタハシラの御親神が、天照大御神をお生みになられ、月讀尊は夜之食国ヨルノオスクニを治めるようにとご委任されたと記されております。
日本書紀には、月夜見尊(月讀尊の文字も用いられております)は、その光彩(ひかりうるわしいこと)が、天照大御神に亜ぐものであると、たたえられております。
天照大御神のご神徳は、「その光華明彩(ひかりうるわしいこと)、六合アメツチの内に照り徹るほどでございます」と、太陽にたとえられていますが、月夜見尊のご神徳は、それにつぐものとして、月になぞらえて、たたえられたと考えられます。
皇大神宮別宮の月讀宮は月讀尊と月讀尊荒御魂がそれぞれ御殿を分けておまつりされていますが、月夜見宮は、月夜見尊と月夜見尊荒御魂が一つの御殿に合わせておまつりされています。
神様の御魂のおだやかなおすがたを、「和御魂ニギミタマ」と申し上げるのに対して、時にのぞんで、格別に顕著なご神威をあらわされる御魂のおはたらきを、「荒御魂アラミタマ」とたたえます。
なお、月夜見尊、月夜見荒御魂尊として、ともに「尊」の文字が用いられておりますが、これは、日本書紀巻第一において、神々の御事をのべるにあたり、特に記して、「至って貴きを尊といい、そのほかを命という」とあるのによるもので、日本書紀の文字づかいに従っております。
次に、「別宮」と申しますのは、本宮との間柄を示すご称号でありまして、皇大神宮、豊受大神宮を、「本宮」とするのに対し、あたかも本家に対する分家の意味で、別宮と称するのであります。別宮の「宮」は宮号と称し、天皇の思し召しにより、古くは勅書をもって、のちには官符をもって、定められました。
これを「宮号宣下」と申します。
神社にご称号をたてまつることは、御祭神のご神威の輝きによります。
これを敬うこというよいよ厚ければ、神の御稜威ミイツも、いやさらに輝きをますものであります。
月夜見宮は御鎮座地が伊勢市の中央に位置し、周囲は繁華街となっておりますが、古くは高河原タカガワラとよばれ農耕と深いつながりのあるお社であります。
延喜大神宮式(第六十代醍醐天皇延長5(927)年奏進)には、外宮の摂社の首位に列せられておりましたが、鎌倉時代のはじめ、第八十三代土御門天皇の承元4(1210)年に、別宮に昇格されました。

月夜見宮参拝のしおり



月夜見宮

宮名とご祭神
月夜見宮(つきよみのみや)
月夜見尊(つきよみのみこと)
月夜見尊荒御魂(つきよみのみことのあらみたま)
ご鎮座地
 JR伊勢市駅前から南にて10分。また、外宮から北に徒歩で10分で、楠(くす)、欅(けやき)、杉その他常緑の木々のおい茂った当宮のご社頭に達します。一歩神域に入りますと、町中のお宮とは思えない、清らかな静けさが、感じられます。
ご鎮座の由来と沿革
月夜見宮:地図 ご祭神の月夜見尊は、天照大御神の弟神で、皇大神宮別宮の月讀宮におまつりされている月讀尊と、ご同神でありますが、当宮では、月夜見尊の文字が用いられております。
 月夜見尊の御事については、『日本書紀』(720)の上巻に、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)2柱の御親神が、天照大御神をお生みになり、次に月讀尊をお生みになられ、月讀尊は夜之食国(よるのおすくに)を治めるようにとご委任されたと記されております。
 『日本書紀』には、月夜見尊(月讀尊の文字も用いられております)は、その光彩(ひかりうるわしいこと)が、天照大御神に亜(つ)ぐものであると、たたえられております。  天照大御神のご神徳は、「その光華明彩(ひかりうるわしいこと)、六合(あめつち)の内に照り徹(とお)るほどである」と、太陽にたとえられていますが、月夜見尊のご威徳は、それにつぐものとして、月になぞらえて、たたえられたと考えられます。
 皇大神宮別宮の月讀宮は月讀尊と月讀尊荒御魂がそれぞれ社殿を分けておまつりされていますが、月夜見宮は、月夜見尊と月夜見尊荒御魂が一つの社殿に合わせておまつりされています。
 月夜見宮はご鎮座地が伊勢市の中央に位置し、周囲は繁華街となっておりますが、古くは高河原(たかがわら)と呼ばれ農耕と深いつながりのあるお社です。『延喜大神宮式』(927)には、外宮の摂社(せっしゃ)の首位に列せられておりましたが、鎌倉時代のはじめ、第83代土御門(つちみかど)天皇の承元4年〈1210〉に、別宮に昇格されました。
 なお、外宮の北御門から真っすぐ月夜見宮に至る宮後町の道は、昔並木があり、その道の真中は歩かない、また穢れに触れてしまった者はその道を避けて通らなかったという習慣がありました。町の古老の伝える歌に
 宮柱建て初めしより月讀の神の往きかふ中のふる道
 月讀の宮仕へとて夙(つと)に起き通ふ神路を清めざらめや
とあり、この道は神様の通う道であると信じられ大切にされていたようです。現在もこの道は地元の人々に「神路通り」と呼ばれ、親しまれています。

公式HP



神路通りの歴史

外宮の北御門から、月夜見宮へ行く間の宮後(みやじり)町のこの路を小字神路といい、通称「神路(かみぢ)通り」といいます。
昔は並木があり、中央を避けて通ったといわれ、今でも中央を歩かない風習があります。 また、家並みの不浄所の戸も道の方へは開けず、不吉な行列もこの道を通らないとされています。
「日本の神話」(河出書房新社)では、この神路通りを次のように解説しています。
「・・・(中略)・・・高河原神社(月夜見宮)と豊受大神宮とを結ぶ一直線の広い道路がある。その道は、神の通い道であると考える気持ちが山だの人々の間には古くからある。 ・・・(中略)・・・外宮の裏参道の入り口と、別宮の月夜見宮(外宮の祇社の高河原神社)とを結ぶ幅広い直線の道路がある。この道は月夜見宮の神の月夜見尊(つきよみのみこと)が夜な夜な外宮へ通い給う、神の通い道であった。つまり御幸道であった。
月夜見宮の入口の正面に石垣があるが、夜になるとその石垣の石の一つが白馬と化して入口にたたずんでいる。白馬は頭を社殿の方へ向けて、神が乗られるのを待っているのだ。夜そこを通りかかった人はその馬を目撃することがあるという。
神の乗った白馬が路を通るとき、それにぶつからないように市民は恐れつつしんで、夜はこの路を通らないのだ。どうしても用があって通らねばならぬ時は、神の馬にふれないように路の端を通るのである。」
この神路通りは、このように神が通る路として昔から神聖なものとして考えられ、昔の人々の生活の作法にも影響していたといえます。

社頭掲示板



月夜見神社

月夜見は都幾與美と訓べし○祭神明か也○今廃亡す○式四、(伊勢大神宮)渡会宮所摂十六座の第一に載す、○神名秘書(渡会宮條)云、式内摂社十六社、月夜見社沼木合大河原村坐、承元宮號』神名略記(同上)云、載官帳摂社十六処、(並在渡会郡田上大水社慶安5年氏人再興、除月読社残十四処、寛文3年精長朝臣再興、)
連胤按るに、神名秘書、神名略記等別宮月読宮を挙て、また摂社月読社を載す、然ればいよいよ二処と知れたり、されど当社は廃亡して年久しけれはいかがはせむ、情考ふるに、実は摂社の月読社宮號の後、別宮と崇めしにはあらざるか、精長朝臣再興の時、当社のみ残されしも深き旨ありけらし、時節ありて祈年幣帛を奉らむには、別宮月読宮にのみ供祭してあやまちなかるべし、

神社覈録



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