佐田国生神社
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   【延喜式神名帳】佐田国生神社 伊勢国 度会郡鎮座

   【現社名】佐田国生神社
   【住所】三重県度会郡玉城町佐田字牛カウベ322
       北緯34度29分24秒,東経136度38分16秒
   【祭神】速河比古命・速河比女命・山末神御魂
   【例祭】10月 21日神嘗祭
   【社格】
   【由緒】倭姫命が伊蘇の宮より小河を遡られた時創祀
       中世廃絶
       寛文3年(1663)に大宮司大中臣精長等によつて再興
       正徳5年(1715)9月28日遷宮
       寛延3年(1750)11月10日遷宮

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初はこの地に鎮座
        中世廃絶
        寛文3年(1663)に大宮司大中臣精長等によつて再興

   【祭祀対象】本来は川を祀る
   【祭祀】中世廃絶
   【社殿】正殿神明造板葺
       玉垣・玉垣御門・鳥居

   【境内社】

内宮の摂社27社のうち、第26位である。『倭姫命世記』には「速河狭田社」と表記されている。
外城田川の西岸。道路脇に森があり、その中に鎮座。
皇大神宮の摂社24社の一つであり、倭姫命が皇大神を奉じて伊蘇の宮より小河を遡られた時、速河彦命が参り、「畔広の狭田の国」と申して佐々上神田を奉り、その地に速河狭田社を定めたのが当社の起源である。
祭神の速河は玉城町のほぼ中央を東北に貫流し、当社の近くを流れる外城田川のことで、御神名は、この川に因むものであろう。天正3年(1575)に田丸城主織田信雄が外城田川を利用してこれを外堀としたため流路を変更しているが、もとは当社のすぐ近くを流れていた。
中世には、他の摂末社と同様に造替・修理が行われなくなり、社殿・社地も失われるに至つた。
寛文3年(1663)に大宮司大中臣精長等によつて旧址を尋ね、現在地あった「ハイコ社」を佐田国生神社として再輿された。

訪問時、たまたま式年遷宮の造替の作業をしていた。末社の社殿はプレハブ式になっており、既に加工されている部材を現場で手早く組み立てられていた。
作業をされている人々はごく普通の作業員であったが、全員が白服であった。


荒木田神主

皇大神宮に奉仕する荒木田神主は、平安時代には宮川西方の田邊・城田・湯田の三郷に勢力を張つてゐた。そのことは、皇大神宮の摂末社の分布からも知られ、宮川に近い湯田郷には湯田神社・狭田國生神社が存し、また田邊郷には原神社と坂手國生神社があり、湯田と田邊の南に接する城田郷には鴨神社・田乃家神社・蚊野神社・朽羅神社・久具都比売神社・奈良波良神社が鎭座されてゐるなど、玉城町付近に皇大神宮所管の式内社が集中して存在する。
また、荒木田氏は古くから一門・二門に分かれてさかえ、そのうち、一門が湯田郷に氏神社と氏寺法泉寺を建立し、また二門が田辺郷に氏神社を設け、城田郷に氏寺田宮寺を建立し、鴨神社に近い積良(つむろ)には、荒木田二門の氏人たちが、毎春三月に山宮祭を行ふ祭場があつたことから考へると、湯田郷の神社は、これら荒木田氏によつて奉齋されたものと推定される。

式内社調査報告



狭田国生神社 さたくなりじんじゃ

皇大神宮摂社。御祭神は川の神二柱、速川比古命(はやかわひこのみこと)と速川比女命(はやかわひめのみこと)と土地の守り神、山末御玉(やまずえのみたま)。 狭田とは川の支流に挟まれた細長い田のことです。社頭入口に紀州藩の建てた「禁殺生(享保甲辰・1724)」の石柱があります。紀州藩領内の摂末社に建てられたようです。

せんぐう館



挾田國生神社

狭田は假宇也、國生は久爾奈利と読り、〇祭神速川彦命、速川姫命、山末御玉神、○湯田郷佐田村に在す、(神名略記)〇式四(伊勢大神宮)大神宮所摂廿四座の第廿二に戴す、〇倭姫世記云、從其処幸行、速河彦詣相支、汝國名何問給、白久畔廣之狭田國止白天、佐々上神田進支、其処速河狭田社定給支、云々、」儀式帳云、挾田神社、称須麻留女神児、速川比古、速川比女、山末御玉三柱、形無、倭姫内親王定祝、

神社覈録



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順悠社