皇大神宮摂社。 五十鈴川と朝熊川が合流する地の東の小山の中腹に、朝熊御前神社と共に西北向きに鎮座する(境内奥、向かって右側が朝熊神社)。社前崖下の朝熊川を隔てた水涯に鏡宮神社がある。 皇太神宮所摂の社の首座として、三節祭の際に別宮に准じた祭礼が行われている。 創立については倭姫命世記に「皇大神宮御鎮座の翌年志摩国伊雑のにおいて白い真名鶴が稲一基持って鳴いていた、この稲を祀り(抜穂を皇大神の前に懸け)、小朝熊の山嶺に社を造り、大歳神を祝いまつられた」とある。 抜穂を皇大神の前に懸けた、というのが、現在も行われている「懸税(かけちから。神前に稲束を懸けること)」の始まりであり、この故事が皇大神宮において旧暦の9月17日、現在では10月17日に行われている「神嘗祭(かんなめさい)」の起源となった。 当社境内にはいつの頃からか桜の樹が多く、西行も 神かぜにこころやすくぞ任せつる さくらの宮の花のさかりは 『続古今集』 と詠つているから、少なくとも平安時代末頃にはすでに著名であつた。 |
明応元年(1492)以降、荒廃し廃絶していたが、寛文3年(1663)6月大宮司河邊精長(大中臣精長)により現社地で再興された。神宮文庫の所蔵する『小朝熊社弁正記』によれば、精長は再興に当たって基址(きし)を求め調査したが知る者はなかったという。精長に確証はなかったが、社地を整備中に古鏡が見つかったことで、確証を得て発見された鏡を新築された社殿に奉納した。 その時朝熊神社の御前社として鏡宮神社が再興され、その後、朝熊神社の隣に朝熊御前神社が建てられ、鏡宮神社は朝熊神社から独立した神社となった。 |
朝熊神社あさくまじんじゃ 御祭神はこの土地を守る神で五穀と水の神として、大歳神(おおとしのかみ)、または桜大刀自神(さくらおおとじのかみ)、苔虫神(こけむしのかみ)、朝熊水神(あさくまみずのかみ)の三座をまつるとも伝えられています。皇大神宮の第一の摂社(せっしゃ)であり、五大祭では必ず神職が参向して奉仕されます。 朝熊御前神社と相並び、向かって右の神社。まずこの神社を参拝します。 せんぐう館 |
朝熊神社 朝熊は阿左久麻と訓べし、亦は小朝熊社と称す〇祭神両説あり、三座櫻大刀自神、苔虫神、朝熊水神、(儀式帳)六座櫛玉命、保於止志神、櫻大刀自神、苔虫神、大山祇、朝熊水神、(伝記)○宇治郷朝熊村北鹿海村東山上に在す、(神名略記)〇式四、(伊勢大神宮)大神宮所摂二十四座の第一に戴す、○儀式帳云、称櫛玉命児、大蔵児、櫻大刀自、形石坐、又苔虫神、形石坐、又大山罪命子朝熊水神、形石坐、倭姫内親王御世定祝、」御鎮座伝記伝、朝熊神社六座、(倭姫命崇祭之神社也)櫛玉命一座、(倭姫命御代瑞玉奉造之、亦曰甕尻、神霊石坐、)保於止志神一座(倭姫命御代崇祭之神社也、真名鶴所化、御鎮石坐也、鮮税霊神、)櫻大刀自神二座、(櫻花木坐也、大八洲櫻樹始從天上降居也、因以爲花開姫命、一座大山祇堕坐也、)苔虫神一座、(櫻大刀自神與合力、大刀子小力子鉾帯造進之、霊石坐也、)大山祇一座、(宝鏡鋳造功神也、霊石坐也、櫻神與并坐也)麻熊水神一座、(宝鏡鋳造功績也、霊石坐也)件神社之宝鏡二面、是則日天月天之所化白銅神鏡、依神託、倭命姫之御制作也、凡天照大神御入座之時、大年神、大山津見、山祇、朝熊水神等奉饗此之処、故神社定給也、』、倭姫世記云、伊勢都彦神、一名神櫛玉命、是伊勢地主神也、又出雲神子出雲建子命、(一名伊勢都彦神、一名神櫛玉命、)並其子大年神、櫻大刀自神命、山神大山罪命、朝熊水神等、五十鈴川後江爾天奉御饗支 連胤云、当社御前の御鏡二面は、往昔より御前の流徹江澤の中岩上に御坐して、毎度紛失の事、当社神鏡沙汰丈、(建久10年)百練抄(長寛元年、正治元年、寛喜2年、文暦元年、嘉禎 年)等に見ゆ、(此後の事は未考ヘず)また沙汰文云、正治元年6月6日、祝磯部時次等解云、当社並御前社宝殿者、共在高由之上、其山下坤方隔江河二十余丈之程水辺岩上、件御鏡二面、自往昔之当所御坐也、云大風洪水之比、云海潮甚満之時、猛浪雖浮其上、鎮座更無相違云々、今はいかなるにや尋ぬべし 神社覈録 |