滝原宮
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   【延喜式神名帳】滝原宮(大 月次/新嘗) 伊勢国 度会郡鎮座

   【現社名】滝原宮
   【住所】三重県度会郡大紀町滝原宮野872
       北緯34度21分58秒,東経136度25分30秒
   【祭神】皇大御神御魂
   【例祭】10月23日
   【社格】
   【由緒】垂仁天皇25年3月倭姫命が大河之瀧原之国に社殿を建てた
       長暦2年(1038)『内宮送官符』には「瀧原神宮」

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地である

   【祭祀対象】
   【祭祀】祭祀は継承されている
   【公式HP】 滝原宮
   【社殿】正殿神明造
       瑞垣御門・瑞垣・玉垣御門・玉垣・鳥居・握舎・鳥居・御船倉・御倉
       忌火屋殿・蕃塀・宿衛屋・齋館・修祓所・橋・鳥居

   【境内社】若宮神社・長由介神・川島神社

伊勢神宮の遥宮(とおのみや)とされる。宮川の中流域、三瀬谷で合流する支流の大内山川北岸の山間に鎮座する。
皇大神宮の別宮
『倭姫命世記』に「大河之瀧原之国」と記されている。
当宮の祭祀は他の別宮と同じく祈年・月次・神嘗などに預り正宮に准じて斎行される。
舎の造替と遷御は他の別宮と同じく正宮の翌年に斎行されるのが例となつている。
中世後期以降は神宮との関係も稀薄となり、祭祀をはじめ當宮の運営は在地の野後の神人達の手になつていた。ために当宮の神領をめぐつて争論が絶えず、神宮と野後神人達は種々の面で対立すること近世半ばに及んだ。
現在でも土着の信仰が強く、神宮の公の祭典以外に、7月22日と10月22日は「御祭(ごさい)」と称され地元の人々が参集する。


由緒

一、宮名とご祭神
(1)瀧原宮(たきはらのみや)
 天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)
(2)瀧原竝宮(たきはらならびのみや)
 天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)
ご参拝は(1)・(2)と順にされるのが一般的です。
ニ、ご鎮座地
 瀧原宮、瀧原竝宮は、ともに皇大神宮(内宮)の別宮で、昔から「大神の遙宮(とおのみや)」といわれています。ご鎮座の地は、宮川をさかのぼること約40km、その支流大内山川が深い渓谷をなして流れる山間にあります。「瀧原」という名は、大小たくさんの滝があるところから出た名です。そのむかし、西国三十三所の巡礼を志した人々が、まず伊勢の大神宮にお詣りしてから、熊野の第一番札所を目ざして歩みを運んだ熊野街道は、現在、国道42号線となり、当宮の前を通っています。ここから荷坂峠を越して黒潮洗う紀伊の海岸に出て、南紀への旅を快適にしています。
 当宮は、紀勢本線の滝原駅で下車し、およそ1.5km。また松阪駅から出発する南紀特急バスが約1時間で一の鳥居前を結びます。自家用車の場合大駐車場もあります。
三、ご鎮座の由来と沿革
 第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)皇女倭姫命(やまとひめのみこと)が、御杖代(みつえしろ=御使い)として天照坐皇大御神を奉戴して、宮川下流の磯宮(いそのみや)をお発ちになり、上流の方にご鎮座の地を求めてお進みになると、砂をも流す急流の瀬があり困っておられたので、真奈胡神(まなごのかみ)がお出迎えをしてお渡し申し上げた。そこで命はそのところに真奈胡神をまつる御瀬社(みせのやしろ)をお定めになったのが、今の皇大神宮摂社、多岐原(たきはら)神社です。瀧原宮の下流約6km、大宮町三瀬川の宮川に臨む断崖の上に鎮座されています。近年までここに熊野街道の「三瀬の渡し」がありました。
 倭姫命はさらに真奈胡神の案内でお進みになると、「大河の瀧原の国」という美わしい土地があったので、この地に草木を刈り払って新宮を建てられたのが、瀧原宮の起源です。そののち皇大御神のご神意によって、再び伊勢の方へ向われたので、瀧原にご滞留の期間はさほど長くなかったと思われます。このご由緒によってご遷幸後もかわることなく、皇大御神を奉斎して今日に至っています。
 なお、両宮とも皇大御神の御魂を奉斎しているのは、皇大神宮に皇大御神を奉祀し、同別宮荒祭宮に皇大神宮の荒御魂を奉斎する姿の古い形と考えられます。

HP




瀧原宮 瀧原竝宮

祭神 天照坐皇大御神御霊 
御鎮座
 御鎮座の地は、宮川をさかのぽること約40km、その支流大内山川が深い渓谷をなして流れる山間にあります。 「瀧原」という名は、大小たくさんの滝があるところから出た名です。
 そのむかし、西国三十三所の巡礼を志した人々が、まず伊勢の大神宮にお詣りしてから、熊野の第一番札所を目ざして歩みを運んだ熊野街道は、現在、国道四十二号線となり、当宮の前を通っています。 
由来
 第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が、御枚代(御使い)として天照坐皇大御神を奉戴して、宮川下流の磯宮をお発ちになり、上流の方に御鎮座の地を求めてお進みになると、砂をも流す急流の瀬があり困っておられたので、真奈胡神がお出迎えをしてお渡し申し上げた。
 そこで命は、そのところに真奈胡神をまつる御瀬社をお定めになったのが、今の皇大神宮摂社 多岐原神社です。瀧原宮の下流約6km、大宮町三瀬川の宮川に臨む断崖の上に鎮座されています。近年までここに熊野街道の「三瀬の渡し」がありました。
 倭姫命はさらに真奈胡神の案内でお進みになると、「大河の瀧原の国」という美わしい土地があったのでこの地に草木を刈り払って新宮を建てられたのが、瀧原宮の起源です。 そののち皇大御神の御神意によって再び伊勢の方へ向われたので、瀧原に御滞留の期間はさほど長くはなかったと思われます。
 この御由緒によって御遷幸後もかわることなく、皇大御神を奉斎して今日に至っています。
 なお、両宮とも皇大御神の御魂を奉斎しているのは皇大神宮に皇大御神を奉祀し、同別宮荒祭宮に皇大御神の荒御魂を奉斎する姿の古い形と考えられます。
例祭
 両別宮は、皇大神宮に準じて祭典が行われ、祈年、月次、神嘗、新嘗の諸祭には皇室から幣帛がたてまつられます。
 1月 1日歳旦歳  3日元始祭     2月 11日建国祈年祭  20日祈年祭     5月 14日風日祈祭
 6月 22、23日 月次祭        8月 4日風日祈祭                   10月 22、23日神嘗祭
11月 26日新嘗祭           12月22、23日 月次祭   12月23日 天長祭
 なお、崇敬者の申し出による祭典として、7月22日に夏の御祭、10月に日を選んで秋の御祭も行われています。 両度の御祭は、近郷一帯からの参拝者で賑わい親しまれています。 殊に夏の御祭は月次祭が明治以後新暦の6月22、3日に行われるようになってからも、農事の関係で旧来どおり7月22日に参拝するようになっているもので、この日瀧原宮の大麻を受けて植田に挿して豊作のお守りとする信仰がありました。
域内の案内
 瀧原宮の宮域44fは、その地勢が皇大神宮のそれと極めてよく似ていて、あたかも皇大神宮(伊勢神宮)の宮域(内宮)の雛型のようです。 後に山をひかえて南面し、すぐ前には東から西に向って流れる枝川があり、それが南から北へ流れる大川に落ち合うT宇型の地形です。 宮域内の鬱蒼と茂る杉の大森林は、他に比類少なく、これこそ自然林の典型であると言われています。
 両別宮とも構造は皇大神宮に準じ、神明造であって、御屋根の樫木は偶数で六本、東西両端には内削ぎ(水平切)の千木が高く聳え、周囲には瑞垣、玉垣の二重の御垣があり、御垣にはそれぞれ瑞垣御門、玉垣御門があります。
所管社
 東の一段高い地には、当宮の所管社、若宮神社(南面)と長由介神社(西面)があり、長由介神社には、川島神社が御同座鎮祭されていますが、三社とも創立年代は極めて古いと考えられます。
古殿地
 東方の空地(隣地)は、古殿地といって、二十年毎に東西交互に敷地を替えて、新しい御殿を造営する式年遷宮のための御敷地です。
御手洗場
 参道より脇に下りたところに、清らかな自然の谷水が流れる御手洗場があります。 手や口を清めるところです。

瀧原宮 参拝のしおり



瀧原宮 大月次新嘗

瀧原は多伎波良ど訓べし○祭神速秋津彦命○伊勢志摩両國堺瀧原村(今野尻と云)に往す○儀式帳云、称天照大神遥宮之、御形鏡坐、
神名略記云、在伊勢與志摩境山中瀧原村、今云野尻、去大神宮西九十里、(此里数は太神宮式に依て記せり、今の里数は古と違へり)
類社
当郡多伎原神社
杷笏
文徳実録、天安元年9月壬寅、伊勢國瀧原神宮内人始預杷笏

神社覈録



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