延宝4年(1676)橘三喜は名神大社中津神社をここに査定して木鏡の御正体と鳥居の石額が藩主鎭信から献納された。 「式内社調査報告」で山口麻太郎は「新城村の河角の山上にあつた中津宮は祠官家海人族の統卒者壱岐氏(後の吉野氏)が(聖母宮から)居館の近くに分祀したもので家神とでも呼ぶべきものであつたと思ふ。壱岐氏はト部であつたからト占を行ふためにもその必要があつた。社殿の小なるもそのためであつた。本社は聖母神社と変つたけれども、分祀はその禍を冤れたのだとも云つてよい。」と記している。 つまり、勝本港にある聖母宮が中津神社であり、当社は祠官であった壱岐氏が居城近くに分祀したものであろう。 |
中津神社 『延喜式神名帳』に「壱伎島壱伎郡中津ノ神社名神大社」、『吉野文書』に「中津神社は壱岐郡管領の神社也」、『壱岐国神名記』に「新城村中津神社、大、改以前は中津宮と云、式外と見ゆ」、『壱岐国神社帳』に「河角、中津神社、大神、二十四座之内、有社拝殿、定祭9月14日、延宝4年6月国主より木鏡神体石額を献ぜらる」、『壱岐国神社考』 に「新城村河角山に古来中津宮と称する小社あり、之を式内中津神社とす、或は然らむ、長門国中津の住吉神社と同体ならずや、若然らぱ祭神は住吉三神なるべし」、『壱岐国惣図打添』に「新城村、中津神社、式内二十四座之内、祭日9月14日、祠官榊原主税、祭神、天津彦々火瓊々杵尊、天兒屋根命、太玉命、嵯蛾天皇草創、神宝木鏡一面、石額一双、延宝4年6月源鎮信公御奉納」、『壱岐名勝図誌』に「中津宮、在中津山(中略)当社ハ神名式に所載壱岐郡中津神社名神大是なり(後略)」、『壱岐嶋式社沿革考』に「一書に仲姫尊を祀るとあり、万治4年の棟札に仲津宮と書けり、されぱ祭神を神号に冠して中津宮とせるか、併し中津神社は名神大にましませぱ古今御崇敬国幣七社の一なる勝本聖母明神か」、『壱岐神社明細帖』に「新城村鎮座、中津の越、中津神社、但式内、名神大、壱岐郡官領ノ神社トアリ(中略)社記曰、嵯峨天皇弘仁2年辛卯冬10月朔日壱岐郡新城邑川須見ノ辺リ中津ノコシノ峰ニ鎮座奉ル、其例記曰、中津神社ハ壱岐郡管領之神社ナリ所載于延喜式壱岐島二十四座之其一也、北触中ヨリ崇敬奉ル、社地六畝十九歩」とある。 当社は、社記によると弘仁2年(811)10月1日に鎮座したと伝え、延宝4年(1676)の式内調査の折りに橘三喜は『延喜式神名帳』に記録される名神大社中津神社をここに査定し、藩主松浦鎮信から木鏡の御正体と烏居の石額が献納された。 現在、合祀される佐肆布都神社は、 『延喜式神名帳』に「壱伎島壱伎郡佐肆布都神社小社」、『壱岐国神名記』に「佐肆布都神社としるす所なり、佐肆布都神社小神、改以前は佐肆布智大神といふ、亦式外といふ、古老の伝云、むかし佐肆布都神石船にのりて比の地に亘り給ふ、其石船は神居の丑子にあり、今案ずるに船石是なり、又石祠の後に大石二つあり、一つは周匝四間三尺六寸、高壱間三尺、一つは周匝三間三尺、高七尺七寸三分、神石と見ゆ」、『壱岐国神社帳』に「打田佐肆布都神社小神、上屋あり、定祭9月18日、古来鎮座年数不知、延喜式にのする所の神社なり」、『壱岐国惣図打添』に「同村(注・新城村)佐肆布都神社、式内二十四座之内、祭日11月18日、祭神、経津主神、嵯峨天皇草創、神宝、木鏡一面、石祠、延宝4年6月源鎮信公御奉納」、『壱岐名勝図誌』に「佐肆布都神社、在打田里、石祠、卯辰向、延宝4年国主奉納なり、上屋、五尺方、瓦葺、境内東西十八間半、南北十九間半、周囲六十七間半、舟石、図出上、畠中にあり、去御山北十七間半、其形勢真の舟の如し、当社ハ式の神名帳に所載、壱岐郡佐肆布都神社なり、延宝改以前ハ佐志布知大明神といひしなり」、『壱岐神社明細帖』に「新城村鎮座、佐肆布都神社、地名サシフチ、北触、但式内、小社、無氏子、正殿、石祠、上屋、桁五尺三寸五分、梁五尺三寸五分、祭神、経津主神、御木鏡、社記曰、52代嵯峨天皇弘仁辛二卯冬10月朔日新城村打田ノ上リ佐志布知ト云フ彼ノ所ニ鎮座奉ル依テ佐肆布都神社ト称シ奉ルト旧記ニ在リ又ノ地名ヲ称シテウツ田トモ云ヘリ、千載千延喜式壱岐島二十四座其ノー也、社地四畝八歩、造営所中ヨリ」とある。 延宝4年(1676)橘三喜によって式内社に査定された。 勝本町史 |
郷社 中津神社 (旧号中津宮) 鎭座地 勝本町大字新城北触 祭神 天津日高彦火瓊々杵尊、天児屋根命、天太玉命 明治41年佐肆布都神社ヲ合祀シテ経津主命ヲ併セ祀ル。 例祭日 3月14日 境内地 234坪 〔由緒沿革〕 一、吉野文書ニ曰、中津神社ハ壱岐群管領ノ神社也。 一、神名記ニ新城村中津神社、大、改以前ハ中津宮ト云、式外卜見ユ。 一、神社帳ニ河角、中津神社、二十四座ノ内、有社拝殿、定祭9月14日、延宝4年6月國主ヨリ木鏡神体石額ヲ献ゼラルト記ス。 一、吉野氏系譜ニ曰、享徳3年(1214)2月17日新庄村中津宮造営遷宮吉野五郎三郎末貞。 附記、末貞ノ時代記ニ新庄、香椎、勝本、箱崎、瀬戸、布氣、本宮、唐田、国府、湯岳、長峰、有安、黒崎、小牧、等ノ大小社務ニ與ルトアリ。 文亀元年(1261)中津宮造営遷宮、吉野九郎太夫末春。 天正4年(1576)新庄中津宮造替遷宮、吉野甚五左衛門末秋。 萬治4年新庄中津宮造替3月10日遷宮、吉野釆女尚忠。 一、明暦2年(2316)8月吉野氏惣領家藤右衛門末正ノ著、新城村若宮御祭礼記ニ中津宮、9月14日、日ノ日祭リ、庄屋々敷ヨリ献調云々、右諸社ハ若宮大明神末社也、御神事可相勤者也トアリ。 一、明治16年10月11日郷社ニ列セラル。 一、大正2年2月神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル。 壹岐國神社誌 |
郷社 中津神社 祭神 番瓊々杵尊 天児屋根命 天太玉命 延喜式神名帳 壱岐島中津神社名神大」とあり、同考証に、「中津島姫命、旧事記云、市杵島姫命、亦云中津島姫命、姓氏録云、安曇連、于都斯奈賀命之後也」と云ひ、神社覈録に「中津は奈加都と訓べし、祭神中津島姫命、新城村に在す、式三名神祭二百八十五座、壱岐島中津神社一座、旧事紀云、中津島姫命者、是所居于中島者、此市杵島姫命也」とあり、壱岐国続風土記所引、壱岐式社考に曰く, 「中津神社、所祭火之瓊々杵尊、天児屋根命、天太玉命也、云々」 神祇志料には「今新城村に在り」とのみにて別に祭神を記さす、嵯峨天皇弘仁2年辛卯冬10月朔、神勅によりて、神代の君、璽を写し奉り、神体に象り、此地に渡し奉る、即ち茲に鎭座あり、文徳天皇仁寿元年辛未春正月庚子、勅して正六位上を授け、陽成天皇元慶元年丁酉9月25日癸亥、中臣忌部の両氏参向して、幣帛を奉る事あり、之れ大嘗会の御供なり、朱雀天皇天慶3年庚子、位一階を進め給ふ、白川天皇永保元年辛酉3月、更に一階を進め給ふ、崇徳天皇永治元年辛酉秋7月、更にまた一階を進め給ふ、高倉天皇治承4年庚子12月また一階を、後鳥羽天皇永暦2年乙巳3月3日、同じく一階を進め給ふ、又壱岐国続風土記所引、壱岐神社帳に曰く、 「中津神社、古来鎮座、萬治4年辛丑再建、延宝4丙辰年、木鏡御正体一面石額是を献ぜらる、云々」 又松浦肥前守鎮信在判壱岐国神社考に、 「中津神社は壱岐郡管領社と坐せぱ、壱岐郡の宗社にして、重き神社なり、当社は、天津彦火之瓊々杵尊にして、豊葦原中津国を治め知ろしめし、大神なるが故に、中津大神と申し奉る、云々」 と見え、又太宰管内志に「中津ノ神社、延喜式に壱岐郡中津神社あり、中津は那珂都とよむべし、中津は地名なり、壱岐国に、中津神社、在新城村本村、祭神瓊々杵尊、天児屋命、天太玉命也、有御殿拝殿、境内東西三十八間半、南北四十間半、周匝百三十八間、社領水田壱畝七歩半、火田壱畝十五歩、又壱岐島若宮記云、若宮大明神之御母號仲媛(則応神天皇之御后仲姫命也、此媛神之垂迹曰仲津宮大明神、今或称瓊々杵尊不知何故(又壱岐式社考云、祭瓊々杵尊、児屋根命、太玉命之社、延宝巳前號仲津宮、或称式外社、定祭9月14日)と見えたり、地図を按するに、仲津神社は瀬戸ノ浦の北にあり、仲津神社より北ノ方の海邊に田浦ノ魚屋場といふものあり」と云へり、本朝神社牒に「中津神社、社人、吉野弾正、但松浦肥前守領分」とあり、明治7年6月郷社に列せらる。 社殿は本殿、拝殿を備へ、境内234坪(官有地第一種)を有す。 例祭日 6月14日 明治神社誌料 |
中津神社 中津神社 なかつじんじゃ 長崎県壱岐郡勝本町新城北触。旧郷社。祭神は天津日高彦火瓊々杵尊・天児屋根命・天太玉命。『延喜式』には壱岐郡十二座(大四座・小八座)の内の名神大社として記され平安時代にはかなりの社格を有していたことが知られるが、その後の動向については定かでない。社記には「壱岐郡管領之神社」であったとしている。延宝年間(1673〜81)国主より木鏡、神体、石額を献ぜられたといい、明治41年(1908)式内社佐肆布都神社を合祀し、経津主命を併せ祀る。例祭3月14日。この日には壱州大神楽の奉奏が行われる。 神社辞典 |