名張川北岸に鎮座する。 古くは名張川の河道が本社の崖下より屈曲し、現名張町部へ流入していた、当社の位置は名張川の屈曲点の先端にあつた。 宇奈根神はもと社域の南西隅の鮎取淵(古井手)に臨む巨巌の上に鎮座し、「なばり社」または「みなり社」と呼ばれていたが、のちに現在地ヘ遷座された。 神護景雲元年に夏見の積田宮より勧請された春日四神が祀られるようになつた。 いま社前の名張市の忠霊碑が建つてゐる所に、神宮寺があり、龍淵山神宮寺院普応院と称した。 『伊水温故』は式内名居神社を宇名根社=現宇流富志禰神社に比定するが、式内宇流富志爾神社はどこにも比定しない。 |
由緒 当社は往古より名張市平尾3319番地の現在地に鎮座ましまし、名張の鎮守神なり延喜式内国史現在の神にして伊賀25社の内なり、延長風土記日く宇流冨志祢神社在平尾村三国地誌に名張郷簗瀬村宇流冨志祢神社圭田42束4カ所の神田を以て祭祀すとあり、天武天皇3年始加祭礼神事圭田亦5年8月放生会を行わるとあり、主神宇奈根神は古老の言によれば神武建国の始1国に瑞穂の祈願するために祭られしものなりと。 天正3年織田信雄当国を征伐し、当社の寄附も設収せられ社頭も数度の兵火に罹り数多の神事も絶えたれども、寛永13年藤堂宮内小輔高吉移住の後は田畑山林若干町を寄附祭祀には乗馬を出され祭礼神事も盛隆に向いつつありて現在に及ぶ。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
宇流富志弥神社 当社は延喜式内国史現在社にて主祭神宇奈禰命は神武建国の始め一国の瑞穂と氏族の安泰を祈願するために祭祀される。天正伊賀の乱にて沿革誌等兵火に遭い焼失するも古文書によれば貞観15年(873)宇奈禰神従5位とあり後神位階昇進し永徳元年従一位に昇進神園大麿に見ゆ。天武天皇3年圭田42束4カ所を以て祭祀するとあり。文徳天皇仁寿元年官幣を受け国司より幣帛を賜るとある。鎌倉幕府開府により廃止となるまで歴代崇敬篤くその後松倉豊後守勝重公及び藤堂高吉公伊賀国に移封領主とし尊敬篤く神威昂揚社勢整い明治14年県社の社格を受け明治40年附近村落の14社を合祀し郷土の鎮守神として親しまれ信仰されて現在に至る 例祭 春祭 4月18日 秋祭 10月28日 境内社として興玉松尾神社、稲荷神社、愛宕神社、八坂神社、 三輪神社、八幡宮、市杵島姫神社、山ノ神、白玉明神、護国神社 を併祀する 社頭掲示板 |
宇流富志弥神社 市指定文化財(工芸) 石造鳥居 この鳥居の高さは笠石の中央部で約4.8m、笠石の両端部では約5.28mとなっている。笠石は長さ約6.6mで反増(反り)がある。柱石は長さ約4.4m、周り1.53mで、左右とも二本継ぎである。貫石は現在は左右とも袖を欠いている。柱石は下部に亀腹(台石)がなく、直ちに地中に埋められており、向かって左の柱に「奉寄進天和3癸亥年11月25日」(1683)の銘が刻まれている。 市指定文化財(工芸) 石造手水鉢 上部は外側縦71cm横1.06mの長方形で深さ26cm厚さ8cmの水鉢で下部は縦58cm横1.01mで高さは46cmである。 この鉢は横12cm高さ30cm長さ56cmの石の角棒二本の台上に置かれている。正面に「天和2壬戌年」(1682)の刻銘があり、在銘の手水鉢としては市内で最も古いものである。 市指定文化財(工芸) 宇流富志祢神社蔵 能・狂言面 44面 当神社秘蔵の能面・狂言面は明治時代初めに名張藤堂家より寄進されたものである。出目栄満作「増女」(江戸時代)角ノ坊光盛法印作「朝倉尉」(桃山時代)安本亀八作「橋姫」(江戸時代)など逸品が多い。江戸時代末期までこれらの面を使用して藤堂邸内の能楽堂で盛んに能楽が演じられた。 名張市教育委員会 宇流富志祢神社 社頭掲示板 |
宇流冨志祢神社 由緒として、当社は天正伊賀の乱(1580年)で、社殿はもちろんの事、宝物や古文書など、すべて焼き討ちにあい消失された。 したがって、記録的なものは残されていないが、本殿の境内地に元久2年丑(1205年)の銘が入っている石燈篭があり、元和2年12月20日の棟札があり、この年に再建されたものと思われる。 崇神天皇の時、「倭姫世紀・神宮後鎮座記」に伊賀陰志守宮二年奉斎とあり、これによって当社にも倭姫の巡行があったことが記されている。 また、「三代実録」によれば、清和天皇、貞観15年(873年)9月27日に宇奈根神、従五位上とあり、その後徐々に位を上げ、円融天皇、永徳元年辛酉2月24日(1387年)従一位を授かる。 天武天皇のとき、圭田42束、四箇所の神田をもって祭祀し放正会を行われ、官幣の奉幣を受けること11回に及ぶ。 また後に、伊賀の領主である筒井定次の重臣の松倉豊後守勝重が名張に着任し、新領を寄進され、また寛永13年に藤堂宮内少輔高吉により更に神領を寄進された。 その後、祭祀には乗馬が出され、累代尊崇の社のして以来、名張の氏神として崇拝され現在に至っている。 当神社は延喜式内で、伊賀二十五社の内の一社であり、明治14年11月に県社に認定される。 公式HP |
宇流富志彌神社 宇流は宇奈禰と読り、富志彌は仮字也、〇祭神在所等詳ならず、(伊水温故)考証云、大屋戸村に在す、椙谷社と称す、』伊水温故云、大屋戸村椙谷社は菅丞相を祭る、 鳥羽院御時勧請、名張三十余郷惣社とて式内社の考なし、」上田百樹云、こは元宇奈泥富士禰とありし奈を脱し、泥を流に誤りて、旧訓は遺りたるか、又後の風土記に、不尽見嶽あり、富志彌と同じ地名にやと云り、猶考ふべし、 神社覈録 |
縣社 宇留富志禰神社 祭神 宇奈根神 武甕槌命 経津主神 天児屋根命 姫大神 合殿 火之迦具土神 菅原道眞 宇迦能魂神 創建年代詳ならすと雖も、延喜式神名帳に載する所なり、即ち神社覈録に、「宇流富志禰神社、宇流は宇奈禰と読り、富志禰は假字也、祭神在所等詳ならす」と云ひ、名張郡(明治29年名張伊賀の二郡を合ぜて名賀郡と云ふ)二座の一に数へ式内小社とす、神祇志料には、「宇流富志禰神社、今簗瀬の平尾村にあり、字奈根神と云ふ」と見え、神名帳考証に、字流富志禰神社、俗云天神乎、在大屋戸村、称楊谷社、豊宇氣姫、出雲意宇郡宇留布神社、和名抄云、杭米、和名宇留之禰、大殿祭祝詞云、屋船豊宇氣姫命、是稻霊也、俗詞宇賀能美多麻」とあれど、今同郡藏持村大字大屋戸鎮座の杉谷神社と混ずるには非ざるか、尚考ふべし、上田百樹云く、「こは元宇奈泥富士禰とありし奈を脱し、泥を流に誤りて、旧訓は遺りだるが、又後の風土記に、不尽見嶽あり、富士彌と同じ地名にやと云り、猶考ふべしと、三國地誌に云く、「簗瀬郷平尾に在り、三代実録授位の宇奈根神即此也、而して簗瀬は名張の旧称にして、和名鈔に云、名張郡長張郷、又隠駅家と称し、中世簗瀬荘と云ふ、其起源は倭姫世紀に云く、簗作瀬の細鱗魚を奉る由見ゆ、是地名の起る所也、東大寺古図に、簗瀬條宇船明神と称す、春日神の遺跡とそ、公事根元に曰く、春日明神、鹿島より御住所尋ねに出給ふ、御乗物は鹿にて、柿の木の枝を御むちに持だせ、伊勢の國なばりの郡につかせ給ふ、御ともには中臣の連時風秀行と云ふ人也云々、」因に云ふ、萬葉集の隠野は後世加久礼野と訓む由大日本地名辞書に載す、古來朝野の崇敬の厚きことは、三國誌に、「名張郡簗瀬郷宇流富士禰神社圭田十二束四所の神田を以て祭祀す」と云ひ、天武天皇2年甲戌始めて祭祀を加へ圭田を奉じ、同4年丙子8月17日放生会を行はれしこと等にて知るべし、神位は貞観3年夏4月10日甲宙正六位に叙し、同15年9月27日己丑從五位上に進み、天慶3年正月6日正五位下、承暦4年2月10日從四位下、永治元年7月10日從四位上に陞り、治承4年12月23日正四位下を、元暦2年3月4日從三位を、建治元年2月13日正三位を、弘長元年2月20日從二位を、建仁元年7月20日正二位を授けられ、永徳元年2月24日從一位に陞せらる、故に仁壽年中より官幣奉幣を賜ふこと十一回の多きに及ぶ、源頼朝以來幣物を廃し、更に簗瀬郷にて、百六石の神田を寄附す、降って天正年中織田信雄の侵入に際し、社領を没せられ、且社頭兵焚に罹り爲に敷多の神事廃絶す、其後藤堂宮内少輔高吉の所領となるや、崇敬極めて厚く、神事を再興し維新の際まで滞ることなし、明治8年村社に列り、同14年10月縣社に昇格す、同41年無格社稲荷神社外十四社を本社に合祀す。 社殿は本殿、拝殿、神楽殿、神饌殿、参籠舎、神輿庫、社務所、井戸屋等を具備し、境内坪数1774坪(官有地第一種)を有す 明治神社誌料 |