射手神社に合祀
いでじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】比地神社 伊賀国 伊賀郡鎮座
          (境内社)木根神社

   【現社名】射手神社
   【住所】三重県伊賀市長田2691-1
       北緯34度46分3秒,東経136度6分6秒
   【祭神】応神天皇
       (配祀)玉垂命 八神靈 伊邪那岐命 宇迦能御魂神 菅原道眞 大山祇神
       彌都波能賣神 建比良鳥命 建速須佐之男命 五男三女神 仁徳天皇 八衢比古神 火産靈神

   【例祭】10月12日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】天武天皇の御代、射手山に勧請された
       天正9年伊賀乱の戦災により焼失
       明治41年多くの社を合祀
       昭和4年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】天正9年伊賀乱の戦災により焼失
        その後現在地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「射手大明神」「八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

射手神社は山裾の神社。木根神社は本殿向かって右に境内社として鎮座する。
源義経が木曾義仲追討の際、当社に詣でたとの伝承もある。
境内の十三重塔は国の重文に指定されている。
明治41年十王下鎮座無格社比地社を合祀している。
「十王下」とは当社の南500mほどの地で、藤堂高久公墓所のある場所。


由緒

一、御祭神  応神天皇、玉垂命他十三神を合祀。
一、例祭日  10月12日宵宮祭、10月13日例大祭。
当神社は第四十代天武天皇瑞夢に依り射手山(現地より西へ2km三軒家の地)に勧請し給ひしものにして900年後の天正9年伊賀乱の戦災により焼失せるも仏性寺跡(現在の社地)に移し奉り奉斎せるものなり(慶長10年の棟札あり)。
源義経、木曽義仲追討の際当射手神社に参詣戦勝を祈願せし折感応あり奉謝の為、矢を奉納せしことは源平盛衰記に左記の如く記せり。 「是より長田里花園と云う所を廻りて射手大明神の前を笠置に懸ても道能候と申・・・射手大明神とは何なる神にて御座ると問給へば其事までの事争知り候べきいとど・・・は射手と書て候なれども申易きに付いとどと申候とは承と云ければ九郎義経戦場・・・に向ふにあをた首落道禁忌也射手明神可然とて長田里花苑を廻り射手大明神の前に下馬し給ひ所願成就と祈祷して云々」
又茅栗双子に、「寿永の比木曽義仲を討亡し洛陽の譟を鎮めよと頼朝の命により大将にハ三河守範頼勢多に向ふ九郎義経は搦手となり山城国宇治より都に入らんとし当国を押通るその道條なれば長田の荘花園の宮射手社へ詣でそれぞれ武器を奉納し‥‥‥」
とあり。以来当社を戦勝勝運の神として崇敬する者多く勝運の神としての信仰を深めたり。
更に西行法師伊勢に住せし頃当社に度々参り来て読める和歌に、
「あづさ弓 ひきし袂も ちからなく 射手の社に 墨の衣手」
一、文化財並宝物
◎ 石造十三塔(南方塔、鎌倉末期の作)重要文化財指定。
○ 銅製経筒一口、経巻八巻(永暦元年)平安後期、旧重要美術品(現県文化財)
経巻八巻は朱墨交書経であり第七巻には永暦元年九月云々の朱書の奥書あり、
朱墨交書は数行又は一枚づつの書記であるのが注目すべき点である。 
○ 宝物は源義経奉納の矢鏃。棟札(慶長十年、元禄十年、享保四年、その他) 
一、年間祭礼日 元旦祭1月1日。厄除祭節分当日。春季大祭3月28日。新嘗祭11月28日
春祭当日は戦死者の慰霊祭が斎行され合せて上野市内高等学校の奉納弓道大会が行はれる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




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