射手神社は山裾の神社。木根神社は本殿向かって右に境内社として鎮座する。 明治41年3月に現地へ遷座。 創祀等不詳。その後の経緯も延喜式内小社に列せられた以外、何もわからない。木根神社という社名も失はれ、中世末以後には酒地明神が木根に存したと伝えられること、近世初期にはその地に牛頭天王を祠ると称する小祠が存したことが、わずかに知られるのみである。 おそらく明治維新後に木根神社が長田字トキに復興せられ、明治7年3月に村社に列せられたが、のち由緒不詳のため無格社とせられて、明治41年3月9日に村社射手神社に移され、その境内社とせられた。 |
射手神社 一、御祭神 応神天皇、玉垂命他十三神を合祀。 一、例祭日 10月12日宵宮祭10月13日例大祭。 当神社は第四十代天武天皇瑞夢に依り射手山(現地より西へ2km三軒家の地)に勧請し給ひしものにして九百年後の天正9年伊賀乱の戦災により焼失せるも仏性寺跡(現在の社地)に移し奉り奉斎せるものなり(慶長十年の棟札あり)。 源義経、木曽義仲追討の際当射手神社に参詣戦勝を祈願せし折感応あり奉謝の為、矢を奉納せしことは源平盛衰記に左記の如く記せり。 「是より長田里花園と云う所を廻りて射手大明神の前を笠置に懸ても道能候と申・・・射手大明神とは何なる神にて御座ると問給へば其事までの事争知り候べきいとど・・・は射手と書て候なれども申易きに付いとどと申候とは承と云ければ九郎義経戦場・・・に向ふにあをた首落道禁忌也射手明神可然とて長田里花苑を廻り射手大明神の前に下馬し給ひ所願成就と祈祷して云々」 又茅栗双子に、「寿永の比木曽義仲を討亡し洛陽の譟を鎮めよと頼朝の命により大将にハ三河守範頼勢多に向ふ九郎義経は搦手となり山城国宇治より都に入らんとし当国を押通るその道條なれば長田の荘花園の宮射手社へ詣でそれぞれ武器を奉納し‥‥‥」 とあり。以来当社を戦勝勝運の神として崇敬する者多く勝運の神としての信仰を深めたり。 更に西行法師伊勢に住せし頃当社に度々参り来て読める和歌に、 「あづさ弓 ひきし袂も ちからなく 射手の社に 墨の衣手」 一、文化財並宝物 ◎ 石造十三塔(南方塔、鎌倉末期の作)重要文化財指定。 ○ 銅製経筒一口、経巻八巻(永暦元年)平安後期、旧重要美術品(現県文化財) 経巻八巻は朱墨交書経であり第七巻には永暦元年九月云々の朱書の奥書あり、 朱墨交書は数行又は一枚づつの書記であるのが注目すべき点である。 ○ 宝物は源義経奉納の矢鏃。棟札(慶長10年、元禄10年、享保4年、その他) 一、年間祭礼日 元旦祭一月一日。厄除祭節分当日。春季大祭三月二八日。新嘗祭十一月二八日 春祭当日は戦死者の慰霊祭が斎行され合せて上野市内高等学校の奉納弓道大会が行はれる。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
木根神社 木根は岐禰と訓べし○祭神建角身命、(伊水温故)○長田郷木根村に在す、阿拝郡に属す、(同上)例祭(欠く)○残編風土記云、伊賀郡杵宮園、有神號地守、月続尊也、 伊水温故云、酒地大明神と號す、今郷人牛頭天王と称す小祠是也、 類社 摂津國能勢郡岐尼神社 神社覈録 |