崇神天皇の58年、垂仁天皇の皇女・倭姫命は、叔母の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)より、天照大神の御杖代(みつえしろ)の役目を受け継ぎ、大神の鎮座される地を求めて旅立った。大和国を出て伊賀国・近江国・尾張国そして伊勢国と至る長い旅の始まりである。(尾張国は『倭姫命世記』にのみ記され、『日本書紀』には記されていない) 伊賀町柘植にある都美恵神社は、伊勢へと至る旅の途中、倭姫命が立ち寄られ、垂仁天皇の2年から2年間大神をお祀りした「敢都美恵宮」といわれている。 『神名帳考証』は当社を式社とする。 |
由緒 当神社の起源は古く、西紀2、3世紀以前と推定されるが、元は霊山中腹の穴師谷に祀られ、「穴石大明神」として崇められていた。しかし、寛永21年(1644)の大洪水によって社地社殿悉く欠潰し、正保3年(1646)現在の地に遷され今日に至っている。明治42年には、合祀によって一村一社の実を挙げ柘植郷の総鎮守となり、大正11年7月に「穴石神社」から伊勢神宮縁りの元社号「都美恵神社」に改められた。 昭和63年は、合祀完了の年から数えて80周年にあたった為、これを記念して、諸社殿の修復、境内の整備、社頭石玉垣の建設等の大事業を実施した。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
都美恵神社 都美恵神社の起源は古く西紀二、三世紀以前ではないかと思われる。我が国へ渡来してきた北方民族(出雲民族)がこの柘植へ移住してきたことは、伊勢風土記逸文に「伊賀の事志(あなし)の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、又の名は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、此の神、昔、石もて城を造り、其の地に坐しき、ここに阿倍志彦の神、来り集い勝たずして還り却りき。因りて名を為しき云々」とあることからも、霊山の中腹穴師谷にこれらの民族の祀っていた神であることは事実のようだ。 この神社のもとの名は穴石(穴師)神社又は、石上明神ともいって上柘植村の産土神として祀られていたが、寛永21年(1644)大洪水の為社地欠損甚だしく、正保3年(1646)今の地に移されたことは、種々の古文書から明らかであるし、その時の社殿造営の棟札(式内社 正保3戌年8月27日)も町文化財として今日残されている。 この神社の祭神は栲幡千々比売命、布都御魂命、布津主命外三十三柱となっているが、又他の一本によるともとの祭神は木花開耶姫であったとも伝えられている。 都美恵の社号については、一村一社の合祀(明治42年4月)後、大正11年7月に現社号に改称されたもので倭姫世紀、伊勢御鎮座遷幸囲略、二所皇太神宮遷幸要略等にある「敢都美恵宮」から「敢」をとって撰定されたもので、即ち都美恵は柘植の古語であり神宮縁りの地でもある。 こうした由緒のある宮をわれわれの産土神として末永く祀りつぎたいものだと思う。 村主種次郎記 例祭日 毎年4月5日 渡御あり 鎮座地 伊賀町大字柘埴町字北浦2280番地 境内石碑 |
都美恵神社 神宮遙拝所とは、わが国の神社の本宗と仰がれる伊勢神宮にむかって、この地から遙かに拝む神聖な場所であり、皇大神宮護鎮座2000年を記念して建立したものであります。 この柘植の地は、皇大神宮が伊勢の五十鈴川の川上に鎮座される以前の第11代垂仁天皇即位2年(西暦前28年)の御代倭姫命が天照坐皇大御神を奉載され倭の国から各地を巡行し、柘植川上流沿岸の当地に「敢都実恵宮」(元伊勢)として二年間鎮座し奉斎されたという明確な史実があり神宮と実に縁の深い場所であります。 社頭掲示板 |
都美恵神社 当神社の創立年代は詳かではありませんが、旧記によりますと敏達天皇の御代此の郷の長、神を祀り穴石大明神と号す。光仁天皇の御代勅命にて社地社殿の御制定あり。と伝えられ、当時は霊山の中腹穴師谷(あしだん)に祀られておりました。その後、寛永21年(1644)の大洪水によって社地社殿が悉く決潰したため、正保3年(1646)現在の鎮座地柘植町の中央字北浦の丘陵の半腹、森厳実に近郷無比の神堺に遷座し、柘植地区の産土神として奉斎されてきたのであります。大正11年7月までは、穴石神社の社号で親しまれてきましたが、明治42年4月を以て合祀による一村一社の実を挙げた(有栖川宮殿下の御染筆写扁額を下附)ことから、倭姫命世紀、伊勢御鎮座遷幸囲略、神道瑚l集、二所皇太神宮遷幸要略記に記載の敢都美恵宮(元伊勢)から都美恵の名をいただき、現在の社号となったのでありますが、都美恵は柘植の古語であり伊勢神宮と縁の深い地であります 社頭掲示板 |