敢国神社
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   【延喜式神名帳】敢国神社 大 伊賀国 阿拝郡鎮座

   【現社名】敢国神社
   【住所】三重県伊賀市一之宮877
       北緯34度47分14秒,東経136度9分52秒
   【祭神】大彦命 少彦名命 金山媛命 (配祀)九所社 六所社
       『伊賀名所記』『伊水温故』『三國地誌』少彦名命・金山比当ス
       『特選神名牒』敢国津神
       『大日本史』神祇志 大稻輿命

   【例祭】12月5日 例祭
   【社格】旧国幣中社 伊賀一の宮
   【由緒】貞観9年10月5日従五位上『三代実録』
       同15年9月27日正五位下
       貞元2年(977)2月南宮明神を敢国明神と同所に遷
       天正9年(1581)織田勢の伊賀攻で延焼
       文禄2年(1593)6月8日復興
       慶長17年(1612)12月藤堂高虎神領百七石四斗を寄進
       明治4年6月国幣中社

   【関係氏族】阿閉氏
   【鎮座地】当初よりこの地に鎮座

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】祭祀は継承されている
   【公式HP】 敢国神社
   【社殿】本殿大宮造桧皮葺
       祝詞舎・手水会・社務所・神輿庫・祭器庫・参集所

   【境内社】摂社 九所社・六所社
       末社 若宮八幡社・結社・小観社・神明社・大石社・市杵島姫社・楠社


神体山と思われている南宮山と向き合っている。
当社創建の年代は明らかでないが、阿拝郡の地は阿閉氏が拠つたところと考えられるから、阿閉氏がその祖神を祀つたものと思われる。 本社の南200mに磐座の大岩あって古墳時代の祭祀用土器が出土した。北東1.5Kmの御墓山古墳は一族の祖先墓。のち南宮山を神体とする原始信仰と習合したと思われる。
神宮寺は南宮山神光院といい、創建の年代は明らかでない。僧坊は古くは十二坊あつたが、近世中期には一坊のみとなつたと。神光院の建物は、いま宮司社宅となつている。


一宮敢国神社略記

御祭神
大彦命 少彦名命 金山比当ス
御神徳
大彦命は第8代孝元天皇の第一皇子にましまして東北未開の地を教化の後、一族を率ゐてこの地に永住し給ひ、伊賀の国の開発に尽し給うた。伊賀開拓教化の祖神と仰ぎまつる所以である。
その後裔は阿部・阿閉・敢・名張・伊賀等を氏として諸国に繁栄し、世にアベ姓を称するものの総祖神にまします。殊に交通安全、健康長寿、児童愛護等の御霊徳を有し給ふ神にまします。
少彦名命は造化の三神である産霊神の御子神として神功の最も霊異なるによって普く知られ、大国主命と力を協せて国土経営に当り給ひ人畜救護の為に医薬・温泉・禁厭の法を創め酒造の道を開き給ふ等其の恩沢に浴するもの万世に尽くることがない。世に『ゑびす様』と称し商売繁昌、大漁満足、五穀豊穣の守護神にまします。だいこく様と共に福の神様として広く崇敬せられ神助を仰がるるも亦斯る霊験ましますが故である。又、縁結び、安産の守護神として神社に縁結社、桃太郎岩の霊巌が祭祀されている。
金山比当スは御名の如く金の神にましまして金銀銅鉄の本質及び其の運用を主宰し給ふ。即ち採鉱・冶金・機械工業其の他金属に関係ある一切の事柄に霊験を垂れ給ひ、人類生活の幸福利益を守護し給ふ。伊邪那美命の神々を産み給ひし時火の神の次に成りませる神にまします。
沿革
当社は古来伊賀の一宮として、朝野の崇敬頗る篤く、殊に当国の人々は総鎮守大氏神と仰ぎまつって其の霊徳に浴して来た。創立年代は詳でないが貞観の頃既に神階五位を授けられ、延喜の制には大社に列せられた。延長年間には朝廷から社殿が修造せしめられ、南北朝時代には、後村上天皇行幸ましまして数日間御参篭あらせられ、社領の御加増もあった。
天正年間兵燹に罹って一時荒廃したが徳川時代になって藩主藤堂家から社殿調度の修営・神器社領の寄進・祭儀神事の復興等が行はれ尊崇極めて深かった。明治4年5月国幣中社に列せられたが昭和21年2月官制廃止によって国家の管理を離れ現在は宗教法人として神社本庁に所属し氏子崇敬者によって維持経営されることになってをる。
丹塗の御殿は朝日夕日に映じ御神光燦として輝き神域の尊重さと祭神の御加護にその霊徳の尊さを伺はせしめられます。
御祭典
毎月1日 月次祭  4月17日 春祭  11月23日 秋祭
12月4日 神幸祭  12月5日 例大祭
古来例祭は 伊賀のおんまつり と称し遠近からの参拝者が多く大祭中最も盛な御祭である。
獅子神楽
1月3日 初舞祭  4月17日 舞上祭
史蹟名勝
南宮山 当社の前方にある高峰で伊賀富士ともいひ、頂上に末社浅間社がある。金山比当スの旧社地で四季共に眺望佳絶である。御墓山 当社の北方約1Km佐那具町にあって東西約45m米南北約100mといふ広大な前方後円の古墳である。御祭神大彦命の御陵墓と伝へられてをる。
参拝順路
関西線佐那具駅下車 約2Km 近鉄線上野市駅下車約4Km共にバスの便がある。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




敢國神社

◆御祭神と御神徳
当神社の御祭神は大彦命を御主神とし外に少彦名命・金山比当スの二柱を配祀申し上げてあります。
大彦命は第八代孝元天皇の皇子で崇神天皇の御代四道将軍のお一人として北陸未開の地を教化し後、伊賀の国に永住せられ国家繁栄の礎を築かれました。
命の御遠征による御活躍にあやかり交通安全其の他、健康長寿の神として御霊徳を仰がれて居ります。
また少彦名命は医薬・酒造の祝神で世に恵美須様と称し商売繁昌・大漁豊穣の守護神としてその御恩沢尽くるところがありません。
金山比当スはその御名の如く採鉱冶金機械工業など近代産業に霊験を垂れ給う守護神であらせられます。
◆御墓山古墳
今を距る遠い昔、王朝時代の名残りを物語る大小の古墳群がこの地方一帯に存在している中で御墓山古墳はその規模極めて広大にて立派な前方後円墳であります。里人は大彦命の御陵墓であると伝えています。大正10年、内務省から史蹟として指定されています。
◆南宮山
当社の前方にある高峯にてその姿秀麗伊賀小富士と称せられています。
四時の眺め美しく、頂上は眺望絶佳で末社浅間社が奉祀されています。
◆桃太郎岩
南宮山上に御鎮座の木華開耶姫命(安産の神)を祀る、この浅間社から遷したと云う霊岩で今も安産の守護神、子授けの神として信仰をあつめています。
◆芭蕉句碑
手はなかむ音さへ梅の匂ひかな。貞享5年、芭蕉翁参拝の時の興吟であります。松尾芭蕉は伊賀上野の人、俳人というよりも世界的一大哲人であったことは世人の普く知るところであります。
昭和37年、社頭に建てらる。

◆縁結社
本社の西にお祭りしてある。
縁結の神として信仰厚く御縁をいただき心願成就された参詣者が沢山あります。
◆獅子神楽
当社特殊神事として古くより行われ舞初舞は正月3日、舞上祭は4月17日となっています。
毎年正月3日、藩公城中に於て領内安全五穀豊穣の祝祷の後、伊賀一国を巡奏して厄除の舞を奉奏し終って報賽神事として舞上祭を行うのが習わしとなっています。
郷土芸能として昭和29年4月1日、三重県無形文化財に指定されました。
◆御祭典
毎月1日  月次祭
4月17日  春祭
ll月23日  秋祭
12月4日・5日 例祭

由緒書



敢国神社

あえくにじんじゃ 三重県上野市一之宮。
古くは阿拝郡に属し、国府の置かれた政治的に重要な地であり、伊賀国の一宮と称されて来た。また当社の前方には秀麗な姿の南宮山(一に伊貿小富士とも)がそびえ、南宮明神ともいわれた。『三代実録』には貞観9年(867)敢国津神に従五位上を、同15年には敢国津大社神に正五位下の神階を授けたとあり、この土地にかかわりをもつ大社の神であったと想像される。通説に従えば、敢国津神は大彦命であるとされ、当社では主祭神となし、少彦名命・金山比当スの二神を配犯する。大彦命は応神天皇の御代に派遣された四道将軍の一人で、北陸方面の征討を担当した。その後裔に阿倍・阿閉・伊賀などの諸氏がある。恐らくはこれらの諸氏が当国の開拓・経営に当った関係で、その祖神を祀ったのであろう。
当社の北方には現模の大きい御墓山古墳(前方後円墳、東西一九間・南北五〇間)があり、里人は大彦命の御陵墓であるといい伝える。延喜の制では国幣の大社に列し、江戸時代には藤堂氏を初めとする藩主の篤い崇敬を受け、明治4年(1871)国幣中社となっている。現在は神社本庁の別表神社。
本殿は彩色華麗で江戸初期の様式を伝え、社頭には松尾芭蕉の句碑が建つ。芭蕉は伊賀上野の出身、貞享5年(1688)当社参拝の折の一句「手鼻かむをとさへ梅の匂哉」が記されている。例祭12月5日。神事芸能として三重県無形文化財指定の獅子神楽があり、かつては正月3日に舞初祭、4月25日に舞上祭が行われ、その間に城中をはじめ伊賀一国を巡奏したが、現在では例祭日と4月17日春祭に奉奏される。

神社辞典



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