敢国神社
あへくにじんじゃ


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【阿閉氏】

当社創建の年代は明らかでないが、阿拝郡の地は阿閉氏が拠つたところと考えられるから、阿閉氏がその祖神を祀つたものとみてよかろう。日本書紀孝元天皇紀に、孝元天皇の皇子大彦命を阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狭狭城山君・筑紫国造・越国造・伊賀臣の七族の始租と伝えており、新撰姓氏録には、阿閉氏を大彦命の子大稻輿命の子孫と記しているが、この阿閉氏が定着したのが、伊賀國阿拝郡であつたであろう。
阿閉臣がこの地に定住したのは、その祖大彦命が四道將軍の一として東国に赴いた後のことであり、その時期は大和時代にあつたであろう。当社の北方に多数の古墳群が存在し、ことに当社の北1Kmにある御墓山古墳は、東西19間、南北50間に及ぶ巨大な前方後円墳であつて、大彦命の墓と伝えており、このあたりが阿閉氏の本貫とみてよい。
式内社調査報告


【祭神】

江戸期に祭神に諸説があるところから、明治に入り時の宮司田中尚房が、大彦命が主神で、少彦名命・金山比売命を相殿とする説を立てるとともに、祭神について教部省に伺いを立て、明治7年12月、教部省から主神を大彦命・配祀を少彦名命・金山比当スという答議を得た。


【公式HP】

敢國神社の御由緒
古来伊賀の国の一宮として、当国の人々の総鎮守大氏神として、仰ぎまつってその霊徳に浴してまいりました。
創建年代は658年ですが、貞観の頃には神階五位を授けられ延喜の制には大社に列せられました。また延長年間には朝廷より社殿が修造せしめられ、南北朝時代には後村上天皇が行幸ましまして、数日間参籠あらせられ、社領の御加増もありました。徳川時代には藩主藤堂家の崇敬厚く、社殿調度の修営・神器社領の寄進・祭儀神事の復興などが行われました。明治4年5月国幣中社に列せられ今日に至っております。
敢國神社の略史
当神社は今から1300年以上前に創建されました。くわしくは、7世紀の中期658年に創建と当社には伝わっています。創建当時は大彦命(おおひこみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の二神で敢國神社が創建されました。
創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和の国に生まれ、大和朝廷創建期の武人と云われています。
又、その子建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)と共に北陸・東海を征討する役目を負われ「四道将軍」のお一人として第10代崇神(すじん)天皇の詔により日本の東目の攻略を果たされた後、大彦命率いる一族は伊賀の国にお住みになり、その子孫は伊賀の国中広がっていきました。伊賀の国の阿拝(あえ)郡(現在の阿山郡は阿拝郡と山田郡が合併してできたもの)を中心に居住した為、阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・阿部・安倍と呼ばれるようになりました。「あえ」とは、「あべ」の原音であり、あべ姓の総祖神でもあると共に伊賀にお住まいの方の祖神でもあります。
又、古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が伊賀地方に住んでおり彼らが信仰する神が当社の配神(はいしん)である少彦名命でありました。当時は現在の南宮山山頂付近にお祀りしていましたが、神社創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りしています。このことから伊賀にお住みの方々はこの二神の混血の民族であると言っても過言ではないでしょう。
創建後、南宮山の社殿が山の下に遷された跡地に新しい神社の創建に当たっては当時の伊賀の有力な人達の頭を悩ましたことであろうと思われます。結局、美濃の国(現在の岐阜県)南宮大社の御祭神である金山比当ス(かなやまひめのみこと)を旧少彦名命の跡地に勧請しました。おそらくその頃南宮山(なんぐうさん)という名がついたのではないかと推測されます。
その南宮山の金山比当スが、敢國神社の本殿に合祀されたのは創建時より319年後の977年のことと記載されています。
ある日突然金山比当スの社殿が激しい音をたててゆれ、止むと同時に社殿前の御神木の幹に、虫食いの跡が文字となって現れ「興阿倍久爾神同殿」と言う8文字の漢字でした。神官の報告を受けた当時の伊香守高則は、早々主家の藤原兼家に報告、直ちに御神慮に従って金山比当スの遷座合祀が執り行われました。こうして当神社は三神をもって敢國神社・敢國津大神(あえくにつおおかみ)となって現在に至っております。
少彦名命を信仰する外来民族秦族は、色々な技術文化を日本に伝えています。たとえば伊賀の組紐伊賀焼・酒造等があります。又、芸能にもみられ、鎌倉時代に盛んになった能楽の祖と言われる観阿称は、伊賀の出身地であります。能楽が武士階級の娯楽に発展し、又、同じ頃に獅子神楽が庶民階級に発達していきました。当神社に伝わる獅子神楽(三重県無形文化財指定)もこの時期にできたものであろうと言われています。現在伊賀地方の各町で「町おこし」として執り行われている獅子神楽の原型とも言われ、伊勢下神楽に多大な影響を及ぼしたとも言われています。


【参拝の栞】

御由緒
当社は古来伊賀の国の一之宮として、当国の人々の総鎮守大氏神として、仰ぎまつってその霊徳も浴してまいりました。貞観のころには神階五位を授けられ、延喜の制には大社に列せられました。また延長年間には朝廷より社殿が修造せしめられ、南北朝時代には後村上天皇が行幸ましまして、数日間参籠あらせられ、社領の御加増もありました。徳川時代には藩主藤堂家の崇拝厚く、社殿調度の修営・紳器社領の寄進。祭儀神事の復興等が行われました。明治四年五月国幣中社に列せられ今日に至っております。
敢國神社 略史
当社は今から1300年以上前に創建されました。詳しくは7世紀の中期、658年という年に創建されました。創建当時は大彦命・少彦名命の二柱で敢國神社が創建されました。
創建以前のお話になりますが、当社の主神である大彦命(おおひこのみこと)は、350年頃第8代孝元天皇の長子として大和国に生まれた方だとありますが、大和朝廷創建期の武人として、その子建沼河別命(たけぬまかわわけのみこと)と共に北陸東海を征討する役目を負われ、四道将軍の一人として、第10代崇神天皇の命を命を承け日本の東国の攻略を果たされた方です。この大彦命が大和朝廷に帰服(第7代考霊天皇時)して以来、伊賀の国を本貫の地として駐屯され、事実上の伊賀の領主であり、子孫は伊賀の国中に広がっていきました。伊賀の国の阿拝(あえ)郡を中心に居住したため阿拝氏を名乗るようになり、後に敢・阿閉・安部・安倍(あべ)と呼ばれるようになりました。あべ氏の総祖紳でもあると共に伊賀人の祖紳でもあります。
古代伊賀地方には外来民族である秦(はた)族が多数住んでおり、彼等が信仰する神が当社の配信である少彦名命(すくなひこなのみこと)でありました。当時は現在の南宮山頂上付近にお祀りしていましたが、創建時には南宮山より現在地に遷してお祀りして現在に至っています。私たち伊賀人はこの二紳の混血の民族でもあります。
創建後、南宮山の少彦名命の社殿が山の下に遷された跡地は、新しい神社創建に当たっては混血の一族の有力者の人たちの頭を悩ましたことであろうと思われます。結局美濃国の南宮社の社神である金山姫命(かなやまひめのみこと)を、旧少彦名命の跡地に勧請いたしました。この頃『南宮山』という名がついたのではないかと推測されます。その南宮山の金山姫命が敢國神社の本殿に合祀されたのは、創建時より319年後の977年のことです。ある日突然金山姫の社殿が激しい音をたててゆれ、止むと同時に社前の御神木の幹に、虫食いの痕が文字となって現れ、『興安倍久爾神同殿』という八文字でした。神官の報告を受けた当時の伊香守高則は、早速主家の藤原兼家に報告、直ちに紳慮に従って金山姫命の遷座合祀が行われました。こうして当社は三神をもって敢國神社・敢國津大神(あえくにつおおかみ)となって現在に至っております。少彦名命を主神とする秦族は、外来民族でいろいろな技術文化を伝えてくれています。たとえば伊賀の組み紐・伊賀焼・酒造などがあります。
また芸能にも見られ、鎌倉時代に盛んになった田楽の祖・観阿弥は伊賀の出身者であります。田楽が武士階級の娯楽に発展し、また同じ頃に獅子神楽が庶民階級で発達していきました。当社に伝わる獅子神楽(三重県無形文化財指定)もこの時期に出来たものであろうと言われています。現在伊賀地方各町で執り行われている獅子神楽の原型とも言われ、伊勢神楽にも多大な影響を及ぼしたともいわれています。
現在当社は伊賀国の一之宮として家内安全・交通安全・商売繁盛・厄除芸能祈願の御参拝者で伊賀地方の方のみではなく、愛知・岐阜・北陸・関東地方より多数御参拝いただいております。


敢國神社 大

敢国は安倍久爾と訓べし○祭神金山姫命、(一宮記頭注)、〇一宮村に在す○当国一宮也、(一宮記、頭注等)」南宮金山姫命、」永万記、南宮、(米五石、贄少々、)〇残編風土記云、一宮山、有神号敢國大明神、所祭金山比当ス也、
連胤云、分書に大とあるは衍なるべき事初めに云り、さて按るに、こは三代実録、貞観15年の叙位に、敢國津大社神とあるを見て、後人かゝる大社の造なれば、爰に大の字脱したるならん、と思ひて書加へたるが、國の下の分書にまで及びたるなるべし、此帳の中にも小の社にて、伊勢國度曾郡川原大社、近江國栗太郡小槻大社あり、其外本國神名帳にも、かゝる類ひあり併せ見るべし、」又云、残編風土記に、当郡南宮山、南宮大明神、所祭少彦名神、とあるは同名にして別社と聞ゆるを、伊水温故に、國分云、人皇64代圓融院貞元2年2月修造の告の事ありて、此南宮明神を一宮敢国明神と同所に遷し奉る、さる故に南宮山も一宮の山と成侍ると云ふ、南宮山とは今の小富士山なり、
神位
文徳実録、嘉祥3年6月庚戌、伊賀國津神授從五位下、」三代実録、貞観9年10月5日庚午、授伊賀國從五位下敢國津神從五位上、同15年9月27日己丑、授伊賀國從五位上敢國津大社神正五位下、」直指抄、冷泉院御宇安和2年8月3日、授正一位、
連胤按るに、阿拝郡は国府にて、殊に一宮とも崇る社なれば、敢國津神、また敢國津大社神と称しゝ事然るべし、嘉祥3年に津神とあるは、恐らくは国津神とありし國の字重ぬるより、伝写の時脱したるならん、猶古本を得て訂すべし、

神社覈録






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