陽夫多神社
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   【延喜式神名帳】陽夫多神社 伊賀国 阿拝郡鎮座

   【現社名】陽夫多神社
   【住所】三重県伊賀市馬場951
       北緯34度49分35秒,東経136度10分30秒
   【祭神】健速須佐之男命 (配祀)五男三女神
       (合祀)天之火明命 火之迦具土神 香香背男神 大物主神 大山祇神 大日ルメ貴命
        宇迦之御魂命 伊邪那伎命 伊邪那美命 速玉之男命 事解之男命 天児屋根命
        蛭子命 菊理比売命


       もともとはこの地方の開拓に関係した神を祀つたものと思われる。
       平安時代中期以後、祇園信仰が普及するにともなつて、須佐之男命を祭神とするようになつた。
   【例祭】4月20日 例大祭 8月1日祇園祭
   【社格】旧県社
   【由緒】宣化天皇3年の垂跡という
       貞観3年(861)四月十日従五位下『三代実録』
       文明5年(1473)5月一條兼良の紀行文に高松宮としてある
       享保4年(1719)神殿大破
       文化14年(1817)12月21日正一位宣下
       明治4年7月村社
       同16年8月郷社
       昭和4年8月県社

   【関係氏族】阿閑氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は川を祀る
   【祭祀】江戸時代は「河合天王」と称していた
   【社殿】本殿流造桧皮葺
       拝殿・幣殿・社務所・休憩所・参籠舎・手水舎・神輿舎
       祭器庫・鐘楼

   【境内社】八柱神社

河合川の南岸、柘植川との合流点近くの岬状の尾根の先端山裾に鎮座する。
藪田大明神ともいはれ、また川合社、高松宮、高松祇園とも称された。
もともとは阿閑氏の一族がこの地方の開拓に関係した神を祀つたと思われるが、平安時代中期以後、祇園信仰が普及するにともなつて、須佐之男命を祭神とするようになつた。
御旅所は、本殿の南200mにある巨大な古墳上にあり、祭神の関係古墳かと思われる。
鳥居と鐘楼との間に宮井と言う井戸がある。普段は枯れているが、7月24日頃からわき出して、7月28日の井戸さらえの神事の時には水量は六割〜七割程度になり、祇園祭当日の8月1日には満水になると言う。
神宮寺は、現在も参道脇にある真言宗仁和寺末の高松山宝珠寺吉藏院であつた。



由緒

当社は延長風土記に「押盾天皇戌午国造多賀連祭之也」とあり、和名抄、伊賀風土記によると伊賀河合郷の総社にして人皇第28代宣化天皇3年(西暦538年)に国中に疫病が流行したので屏息祈願のため伊賀国造多賀連が同年創建したとある。以来病気平癒の御霊験あらたかなるをもって藩主の崇敬厚く屡々寄進あり、又一般崇敬者の参拝多しと、社記にあり。清和実録に高松神、延長風土記に薮田大明神の社号で記載されている。又古くより「河合の天王さん」「河合の祇園さん」と呼ばれ、氏子崇敬者から親しまれている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




陽夫多神社

延喜式内 陽夫多神社由緒記
鎮座地 三重県阿山郡阿山町大字馬場九五一番地
御祭神
  健速須佐之男命
    五男三女神 天之火明命 火之迦具土神 香々背男命 大物主命
大山祇神 大日貴命 宇迦能御魂神 伊邪那伎命 伊邪那美命
速玉之男神 事解之男命 天兒屋根命 蛭子命 菊理比賣命
由緒
  当社は延長風土記に「押盾天皇戌午国造多賀速祭之也」とあり。和名抄、伊賀風土記によると、伊賀河合郷の総社にして人皇第28代宣化天皇3年(西暦538年)に国中に疫病が流行したので屏息祈願のため伊賀国造多賀連が創建したとある。世に高松神、河合天王の称あり
御神徳
  当社の主祭神健速須佐之男命は自から祓い清めることを実践された神様で古来より「厄病難守護」の信仰が篤く、産業、文学(歌道)の神として崇敬されている
主な祭典と神事
  祈年祭 2月18日 裸々おし
  例祭 4月20日 羯鼓踊(文化財)餅まき 少年剣道大会
  祇園祭 8月1日 精進祭 7月25日 宵宮祭 7月31日 花火奉納大会
  本祭 8月1日
   深湯神事 神輿神幸式 願之山踊(文化財)花傘取り
   大幟 宵宮祭早朝、長さ35mの大幟が各字氏子中から7基奉納される
   神井 祇園祭前後約7日間湧く、この水何年経過するも腐敗することなし神水としての信仰あり
  新嘗祭 11月28日
社宝
  神鏡 二面銅円形直経二尺銘「正一位藪田神社平安城住天正9青盛重造之」
  宣旨 薮田神社正一位文化14年
  鐘 青銅製径三尺高六尺銘「寛文7年乙未暦3月吉辰鋳造」
  懸佛 二面青銅製 鉄製
  刀剣 八振 鎧兜外武具一式
境内社
  八柱神社
   御祭神 大山祇神 火之迦具土神 五男三女神 金山比賣神
宮司 神田 徳夫 記

社頭石碑



陽夫多神社

当社は宣化天皇3年(西暦538年)に、国中に疾病が流行したので、屏息祈願のため、伊賀国造多賀連が同年創建したと古書にあり、産土神(守護神)として今日に至る。
高松神、薮田神の社号あり、又、古くより『河合の天王さん』『河合の祇園さん』と呼ばれ、氏子崇敬者から親しまれている。
御神徳
当社の主祭神健速須佐之男命は、自ら身を以って祓い清めを実践された神様で、出雲の国へ下向されて、八岐大蛇を退治され、櫛稲田姫を救われて結婚されてから、地方の開拓・治水・農業・薬事の振興に尽くされ、昔から『縁結び』『産業』の神として、又、『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣つくる その八重垣を』と詠まれた歌は、日本最初の若として記紀により伝えられているので、『歌道の神』『文学の神』として崇敬されている。特に『厄除け』『災難除け』『病気平癒』の神としての信仰が篤い。

社頭掲示板



羯鼓踊り

阿山町指定文化財 この踊りは江戸時代の寛永年問に始まるとされ、大江にあった火明神社の境内で夏祭り旧暦6月14日に行われていたが明治40年に陽夫多神社に合祀されてからは春祭り4月10日に行われる。
農耕の予祝神事としてはじまる民俗行事の一つで旱魃の時には雨乞い踊り、平穏なときには豊年踊りとして行われる。
踊り子は頭に山鳥の尾 背中にオチズイと呼ばれる飾りを付け前には羯鼓を下げ踊り歌と太鼓ホラ貝の音にあわせて羯鼓を叩きながら踊る。
阿山町教育委員会

社頭掲示板



願之山踊り

阿山町指定文化財
陽夫多神社の祇園祭り(8月1日)に行われ、病気平癒、家内安全の願懸けを解く神事として、文録年間(16世紀末)より現在の形で行われるようになったとされる。踊りは青年の大踊りと男の子の小踊りに分れ、太鼓を乗せた屋形が綱で引っばられ、踊り子は「ゲーニモサーニ」のはやし歌にあわせ太鼓を打ちながら境内を何度も往来する。
阿山町教育委員会

社頭掲示板



特殊神事「裸裸祭」

新しい年を祝う・喜ぶ・愛でる、そして祈る。そんな祭りには歳旦祭・元旦祭と大祭の一つである祈年祭(としごいまつり)がある。
読んで字の如く、新しい年を祈り穀物の豊作を始め、工業・商業の発展、漁業の大漁と、地域の願いを込めて、行われる公共的な祭りである。それに比べ、私的な祭りが家内安全・商売繁盛・厄除祭がそれである。阿山郡阿山町馬場の陽夫多神社(神田徳夫宮司)には、昔より裸裸(ららが訛ってだだと言う)祭りと呼ばれている祭りがある。日は2月18日、氏子地域である八郷で、厄年の、15歳、初老の42歳、還暦の61歳の男達が決められた家で、フンドシ姿となり、午後8時素足で神社神楽殿に駆け足で集合し、祓いを受けた後神楽殿を左右に分け、上四地区を上郷とし左側に、下四地区を下郷とし右側に分けて、全員が肩を組み人きな一つの輪(約100人前後)となり、右足を上げ左片足で長老の合図で「ワッショイ ワッショイ」の掛け声で、左右どちらかへ回り始める(両足では自由に回れない)。回るのは30分ぐらいであるが、時々焚火や御神酒を受けながら行うので、左足片方で、30分間の回転は疲れ苦しい、又回るだけでなく上郷と下郷とで押し合いながら回るのである。そして最後に止まった所が左側か右側かによって、今年の作物の出来具合が上郷か下郷か、どちらが豊作かを見るとともに、参加した厄年の人の厄を落とし、今年の無事を願う祭りでもある。そして最後に全員で祝いの手拍子歌
「アアー三国一度に打ってくれ、アーシャンシャン
もう一つせ祝うてシャンの オッシャンのシャン」
を行なって終わるのである。しかし現在、過疎化となり、参加する人数が少なくなっている為、氏子青年会・少数の厄年の人・氏子総代等、約、20名の人々で行われている。このように過疎化や少子化によって、神社との係わりを持つ人、持つ事が少なくなって来た事が、現在社会の親子の断絶・犯罪の低年齢化・命の軽視・自己中心等に現れているのではないだろうか。我々も、地域や隣人との繋がりを深め、社会の平穏を目指す努力をしなければならないと思う。(中森委員)

三重県神社庁「みあかり」9号



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