陽夫多神社
やぶたじんじゃ


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【お旅所古墳】

阿山町指定文化財
陽夫多神社のお旅所にあることから、このように呼ばれている。
石室を覆っていた土砂が流出し、墳形は明らかではない。南に開口する両袖式の広い横穴式石室は、現状で羨道部の長さ4.8m以上、玄室部の長さ5m、幅2.6m、高さ2.2mある。
古墳時代後期、六世紀後半の築造が考えられる。
また陽夫多神社の裏山には、全長40mの前方後円墳、宮山一号墳他、二号、三号の横穴式石室を持つ円墳がある。

お旅所古墳



【由緒】

陽夫多神社
やぶたじんじゃ 三重県阿山郡阿山町馬場。旧県社。祭神は高松神、健速須之佐之男命・五男三女神・外14柱の神を祀る。
藪田神社とも書き、河合天王とも称されている。創建はつまびらかではないが、宣化天皇3年に創立したと伝えられている。『三代実録』貞観3年(861)に高松神に従五位下を授けている。この神は諸説あるが、貞享4年(1687)に著された『伊水温故』では陽夫多神にあてている。『延喜式神名長」に列した。江戸時代になると藩主の崇敬が篤く、しばしば寄進をうけている。例祭ぱ4月20日、8月1日の祇園会には、病気平癒を祈願した者のために願解として願の山が造られ、青年より選ばれた踊り手などにより願解き、すなわち、願之山踊が行われる。2月16日の祈年祭には拝殿で二派に別かれて盾をもって押し合い、その年の吉凶を占う裸々神事もある。

神社辞典



陽夫多神社

陽夫多は假字也○祭神素戔鳴尊、(社記)○河合郷馬場村に在す、今高松祇園と称す、(伊水温故)例祭(欠く)○残編風土記云、河合山、有神號藪田大明神、武小廣國押盾天皇御宇戊午、國造多賀連祭之、
伊水温故云、高松祇園卜云フ、毎年6月14日祇園會アリ、神輿二ツワダル、昔社領二百石アリ、礼殿ニシテ毎年タダオシアリ、河合七郷大勢集リテ是ヲオシ、其勝負ニヨリテ其年ノ村郷ノ吉凶ヲ知ル、
類社
伊勢國河曲郡夜夫多神社
神位
丈化14年12月21日被奉授正一位

神社覈録



郷社 陽夫多神社

祭神 高松神 健速須佐之男命 五男三女神
入皇廿九代宣化天皇3年の勧請にして、残編風土記に曰く、河合山に神あり藪田大明神と號す、武小廣國押盾天皇御宇戊午、國造多賀連之を祭る、神名帳考証に、「陽夫多神社、馬場村河合庄に在り、伊勢河曲郡夜夫多神社、按陽夫八百穂也」と見え、神社覈録に云く、陽夫多は暇字也、祭神素戔鳴尊、河合郷馬場に在す、今高松祇園と称す、伊水温故に云く、高桧祇園と云ふ、毎年6月14日祇園曾あり、神輿二つわたる、昔社領二百石あり、礼殿にして毎年ただおしあり、河合七郷大勢集りて是をおし、其勝負によりて其年の村郷の吉凶を知る云々、神祇志料に云く、陽夫多神社今河合庄馬場村に在り、藪田社と云ふ、三代実録に云く、貞観3年夏4月14日甲寅、伊賀國正六位上高松神に從五位下を授く、総國風土記に云く、阿拝郡(明治29年阿拝山田二群を合せ阿山郡と改む)川合神社圭田六十二束、持統天皇3年己丑奉圭田加神体、所奉祭素戔鳴尊也とあり、大日本地名辞書河合の条下に、萬寿禅寺記に、伊賀國川合荘と云ふは此なり、永閑名所記に河合里高松宮と云ふは、延喜式、陽夫多神社に同しく、三代實録授位の高松神を之に配祀すと、後世高松祇園と称し、社僧を高松山吉蔵院と云ふ、今河合村大字馬場に在り、頓阿十樂庵記に、此祇園天王を三田郷に勧請したる由見ゆ、美濃路記に一條兼良「ゆふかけて猶こそきかめほとゝぎすたむけの聾の高松の里」と是なり、明治8年村社に列し、同16年郷社に昇格す、同41年村社綾神社、同宇手比神社、同熊野神社、同津島神社、同大明神社、同天津神社、無格社二十八を合祀す、杜殿は本殿、拝殿、絵馬殿、神輿舎、参籠殿等具備し、境内坪数1871坪(官有地第一種)を有す、

明治神社誌料






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