倭文神社
しとりじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】倭文神社 伯耆国 川村郡鎮座

   【現社名】倭文神社
   【住所】鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内754
       北緯35度29分26秒、東経133度54分11秒
   【祭神】建葉槌命
       (配祀)下照姫命 事代主命 建御名方命 少彦名命 天稚彦命 味耜高彦根命

   【例祭】5月1日 例祭
   【社格】旧国幣小社 伯耆国一宮
   【由緒】創建年代は不詳
       大同3年(808)『大同類聚方』に倭文神
       齊衡3年(856)8月従五位上
       天慶3年(940)9月4日正三位
       承暦4年(1080)6月10日社司が神事を穢したとして中祓
       中世社殿荘麗で八十余の末社を有し、千石の朱印地を領した
       大永年中(1521−28)兵焚に罹り社殿焼失社領没牧
       天文23年(1554)尼子晴久社殿造営社領七十石寄進
       元亀元年(1570)6月尼子豊後入道宗勝社領を復旧
       慶長5年(1600)災火焼失
       寛永の始新に社殿造営
       寛永10年(1633)11月国主池田氏社領四石九斗二升を寄進
       文化15年(1818)造営
       明治5年2月県社
       明治40年2月3日神饌幣帛料供進神社指定
       昭和14年11月1日国幣小社

   【関係氏族】倭文氏
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「一宮大明神」「倭文大明神」と称していた
   【公式HP】 倭文神社
   【社殿】本殿流造
       通殿・祀詞舎・拝殿・神饌所・随神門・手水舎・社務所・宝庫・制札所

   【境内社】

機織に携わった氏族である倭文氏が祖神の建葉槌命を祀ったのが起源とされている。ただし、社伝には下照姫命に関するものが多く、大正時代までは下照姫命が主祭神であると考えられていた。社伝によれば、出雲から渡った下照姫命が現在の湯梨浜町(旧羽合町)宇野に着船し、御冠山に登って現在地に鎮まったという。着船したと伝えられる場所には、下照姫命が化粧を直したという「化粧水」や、腰を掛けたという「お腰掛岩」などが残っている。元々は織物の神である建葉槌命を祀っていたのが、当地で織物が作られなくなったことにより建葉槌命の存在が忘れられ、共に祀られていた下照姫命だけが残ったと思われる。
境内の塚が下照姫命の墓であると考えられていたが、大正4年の発掘により経塚であることが判明した。その出土品の銘文から、当社が平安時代後期には伯耆国一宮であったことがわかった。



由緒

伯耆一ノ宮 倭文神社の栞
鎮座地 鳥取県東伯郡東郷町宮内754番地
JR山陰線松崎駅下車 バス藤津入口下社 松崎駅からタクシーあり。約4キロ
御祭神 健葉槌命(主神)・下照姫命・事代主命・建御名方命・少彦名命・天稚彦命・味耜高高彦命
由緒 安産の神として崇敬されている当神社は、伯耆国の一ノ宮である。創立年代は不詳であるが、社伝によれば。大国主命の娘下照姫命が出雲から海路御着船従者と共に現社地に住居を定め、当地で死去される迄、安産の指導に努力され、農業開発、医薬の普及に尽くされたという。
創立当時当地方の主産業が倭文(しづおり)の織物であったので、倭文部の祖神健葉槌命に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、他の五柱の神は大国主命のお子神か関係の深い神々である。
当神社に対する安産信仰は古来からのもので、数々の霊験が伝えられているが、倭文の織物は姿を消したので、安産の信仰が残り、当神社は安産の神として、本県は勿論広く県外にも御神徳が及んでいて、安産祈願の参詣者で社頭は賑わっている。
平安時代延喜式神名帳(西暦922)には、当神社の名が見え、神階は、度々昇進し、承和4年(西暦837)従五位下、斎衡3年(西暦856)従位上、天慶3年(西暦940)には、従三位から正三位に進んでいる。
平安時代当神社にも多数の神宮寺が建立されたが戦国時代武将に社領を没収され、神社のみを残して各寺院は四散した。
当神社には勅額と称する古額が現存し、正一位伯州一ノ宮大明神と刻されている。
往古社殿広大で千石の朱印地を有したと伝えられるが、戦国時代荒廃。天文23年(西暦1554)尼子春久社殿を造営神領七十石寄進。後神領中絶したが、元亀元年(西暦1570)羽衣石城主南条宗勝がこれを復旧した。徳川時代は池田藩主祈願所となり祭日には藩老和田氏から境内警備のため、鉄砲六人を付されている。 明治以降県社であったが昭和14年に国幣小社となった。
例祭日は五月一日
・国宝・伯耆一ノ宮経塚から大正4年に発掘されたもので、東京国立博物館に納められている。
 ◎銅経筒(平安時代) 銘文中康和五年十月三日山陰道伯耆国河村東郷御座一宮大明神の文字がある。
 ◎金銅観音菩薩立像(白鳳時代)
 ◎その他仏像 銅鏡、銅銭。るり玉。桧扇残片。短刀刀子残欠。漆器残片。などがある。

安 産 岩
神社境内に至るまでの参道横にある。昔常に難産に苦しむ婦人が願をかけ、満願の日夢に下照姫命が姿を現され、参詣の帰途安産岩で簡単に出産し爾来安産岩と称するようになったと云う。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



倭文神社

国指定史跡 昭和10年12月24日指定
伯耆一ノ宮経塚
 この地は、古くから伯耆一ノ宮倭文神社の御祭神・下照姫命の墳墓と言い伝えられていた場所で、発掘の結果、経塚であることが判明した。
 「元日の朝に金の鶏が鳴く」という金鶏伝説のあった場所でもある。
 経塚が築造されたのは平安後期の神仏混交の時代で、伯耆一ノ宮にも寺院(神宮寺)がいくつか建立されていた。
 経塚から出土した国宝指定の銅経筒などは、当時の僧・京尊が埋納したものである。

社頭掲示板



倭文神社

伯耆一ノ宮倭文神社
一、通称 伯耆一ノ宮
一、祭神 建葉槌命(主神)
     下照姫命外五柱
一、例祭日 5月1日
一、由緒 伯耆国の一ノ宮としで御冠山の中腹に位置し広く安産の神として信仰されている。創立年代は不明であるが、出雲大社御祭神大国主命の娘下照姫命が出雲がら当地に移住され、安産の普及に努力された。
創立当時、当地方の主産業が倭文(しずおり)の織物であったので倭文部の祖神建葉槌命に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、その後倭文の織物が姿を消し、安産信仰だけが残り、安産守護として崇敬され、参道横には安産岩も伝えられている。
平安時代延喜式神名帳(西暦922年)には当神社の各がみえ、神階は度々昇進し、天慶三年(西暦940年)には従三位から正三位に進んでいる。その後正一位に昇進されたとみえ「正一位伯州一宮大明神」と刻した勅額と称する古額が現存している。
住古の社殿広大で、千石の御朱印地を有したと伝えられ、鎌倉時代の東郷荘絵図には東郷湖附近に点々と一ノ宮領文字がみえている。
然し戦国時代荒廃、天文23年(1554)尼子晴久社殿造営神領十石寄進。後神領中絶したが、元亀元年(西暦1570年)羽衣石城主南条宗勝これを復旧した。
天正年羽柴秀吉を迎え討つべく、吉川元春(毛利の武将)橋津の馬の山に在陣するや、当神も兵営とせんとしたが、元春の子元長は霊夢を感じて、兵を馬の山に引いている。その後御冠に入った秀吉との対陣は有名である。
羽衣石城の南条元続当社の荒廃を嘆き、神領を収め、新地を寄せ代官をして社領の監査を厳ならしめたという。
徳川時代は池田藩主の祈願所となり、天正年間の戦乱で中絶した神輿渡御を延享2年(1745)再興し、藩老和田氏から境内警備のため鉄砲6人を附されている。
明治以降県社であったが、昭和14年国幣小社となった。
一、安産岩 神社境内に至る迄の参道横にある。
昔常に難産に苦しむ婦人が、古来から安産の神として信仰の厚い伯耆一ノ宮に願いをかけて日参し、満願の日下照姫命の霊夢を感じ、参詣の帰途この岩で安産したので、以来安産岩と称するようになったという。
一、下照姫命御着船の地 羽合町宇野と泊村宇谷の中間の御崎に、出雲より御看船されたと伝えられるが、その近くに化粧水と称し、船からおあがりになって化粧を直すのにお使いになつた水が伝えられている。
一、国宝 伯耆一ノ宮経塚出土品(東京国立博物館に展示されている)
一、史跡伯耆一ノ宮経塚
(附)馬の山古墳群ば、当神社より丘続きの位置に存在する。
昭和54年3月湯梨浜町教育委員会

社頭掲示板



詳細ボタン


伯耆国INDEXへ        TOPページへ



順悠社