倭文神社
しとりじんじゃ


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【由緒】

安産の神として崇敬されている当神社は、伯耆国の一ノ宮です。創立年代は不詳ですが、社伝によれば大国主命の娘の下照姫命が出雲から海路御着船、従者と共に現社地に住居を定め、当地で死去されるまで、安産の指導に努力され、農業開発、医薬の普及にも尽くされたといわれています。創立当時、当地方の主産業が倭文(しづおり)の織物であったので、倭文部の祖神建葉槌命に当地と関係の深い下照姫命を加えて祭神としたもので、他の五柱の神は大国主命の御子神か関係の深い神々です。平安時代、延喜式神名帳(西暦922年)には、当神社の名が見え、神階は度々昇進し天慶3年には正三位にまで進んでいます。また勅額とされる古額が現存し、そちらには正一位伯州一ノ宮大明神と刻まれています。往古の社殿広大で、千石の朱印地を有したと伝えられるが戦国時代に荒廃。天文二三年(西暦1554年)尼子春久により社殿を造営、神領七十石寄進。後、神領中絶したが、元亀元年(西暦1570年)羽衣石城主南条宗勝これを復旧しました。徳川時代は池田藩主の祈願所となり、明治以降は県社であったが、昭和14年に国幣小社となりました。また、当神社に対する安産信仰は古来からのもので、数々の霊験が伝えられており本県は勿論県外にもご神徳が及び、戌の日には安産祈願の参詣者で社頭は賑わいをみせています。

公式HP



【由緒】

創立年月詳ならざれざも、仁明天皇承和4年從五位下に叙せられ、交徳天皇齊衛3年従五位上を授けらる、延喜の制小社に列し、朱雀天皇天慶3年從三位より正三位に進む、後本国の一宮と称す、白河天皇承暦4年6月御トに倭文神の崇あるを以て社司に中祓を科せらる、後正一位に叙せられしにや現に正一位伯州一宮大明神と刻せる古き勅額を所藏す、本社の東南に御座所平、又勅使屋敷と称する所あり、往古勅使参向の遺跡なりと云ふ、當社には神宮寺ありて天台に属し、堂塔僧坊等多く龍徳寺之れが主管たりしといふ、現に寺山、正來、堂山、堂前等の字を存し、寺屋敷、龍徳寺屋敷、護摩堂屋敷等の遺跡を存せり、毛利氏の時寺領地三千石を給せられしが、羽柴秀吉に没収せられ、此の時各寺院も離散するに至れり、旧記に拠るに、往古の社殿は壮麗にして八十余の末社をも有し、千石の御朱印地を領したりしと。奉仕の神職も又夥しく正神主は國造なりしと云ふ、今猶國造屋敷、國造橋、末社屋敷等の名称残れり大永年中兵焚に罹り社殿焼失、社領も没収せられしが天文23年尼子晴久社殿を造営し神領七十石を寄進す、其の後再び神領絶えしも、元亀元年6月尼子豊後入道宗勝之れを復旧す、天正兵乱の際吉川の諸将馬山に在陣するや、社人を逐うて當社に寵居せしが、羽柴秀吉御冠山に肉迫せしとき、吉川元長当社の霊夢に感じ神威を恐れ幣物を奉りて厚く崇敬せり羽衣石城主南條元続当杜の荒廃を歎き再興を計り崇敬淺からす、神領を改め新地を寄せ代官貝屋青木の両人をして社領の監査に從はしむ、慶長元年又災火に罹り社殿烏有に帰す、寛永の始新に社殿を造営す、同10年11月國主池田氏社領四石九斗二升を寄進す、寛永2年本殿再建の工を竣るや國守池田氏より白銀十枚を奉納せらる、其の後社殿大破し先例に依り官の允許を得て伯耆国内に資材を募り、文化15年竣工す、今の本殿是なり、神輿渡御も昔時は春秋二回盛に行ひしが、天正の頃より中絶せしを、延享2年4月再興せしが、山内固めてて藩老和田氏より警護の士鐵砲六人づつを附せらる。 当社の末社昔は八十余社ありしが、戦乱の爲めに破壊せられ、嘉永年度には僅かに十二社存せしが、明治維新の際廃せられ更に早稻田社、藤津社、長江社、北野社、宇野社、宇谷社の六社を附属摂社と定めらる、続いて社號を倭文神社と改められ、縣社に列す、明治40年2月3日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。大正4年12月旧境内字御参所より佛像古鏡経筒等を発掘す、康和5年の銘あり大正9年4月出土品全部を國宝に編入せらる。

鳥取県神社誌






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