荒穂神社
あらほじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】荒穂神社 肥前国 基肄郡鎮座
          (旧地)荒穂神社(旧地)

   【現社名】荒穂神社
   【住所】佐賀県三養基郡基山町宮浦2050
       北緯33度26分1秒、東経130度30分34秒
   【祭神】瓊瓊杵尊
       (合祀)住吉大神 春日大神 五十猛命 加茂大神 八幡大神 寶滿大神

   【例祭】9月22-23日 神幸祭
   【社格】旧県社
   【由緒】大化元年(645年)国造金連の子孫金村臣が基山の山頂に創祀
       貞観2年(860)2月8日正五位下
       永正2年(1505)9月筑紫廣門寄進
       永禄中(1558−70)大友宗麟の兵火で焼失現在地に遷
       天正14年(1586)兵火焼亡
       慶長10年(1605)藩主宗氏六石寄進
       明暦3年(1657)造営
       貞享2年(1685)造営
       安政元年(1854)改築
       明治6年郷社
       昭和3年11月県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】大化元年(645年)国造金連の子孫金村臣が基山の山頂に創祀
        永禄中(1558−70)大友宗麟の兵火で焼失現在地に遷

   【祭祀対象】山頂に「たまたま石」と言う花崗岩塊がある
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造檜皮葺
       中殿・拝殿・参籠殿

   【境内社】

基山頂上南西部、標高404.45m地点の崖際、握り飯形の花崗岩塊がある。この岩塊を前にして平坦地があり、最も見晴しのよい一画。ここが旧社地であるとされている。この岩塊を「たまたま石」といひ、乾方(北西)大宰府方面に向つて聳え立ち、風鎭祭を行い風占をする伝統がある。
天智天皇が白村江の戦いの後、基肄城を築き荒穂神を守護神とした事が社伝にある。


荒穂神社

祭神 瓊々杵尊 五十猛命 他六社
当社は「日本三代実録」貞観2年(860)の項の荒穂天神の名で神階昇叙の記事がみえ、延喜5年(927)撰進の「延喜式」神名帳に社名がみえる式内社(肥前国では四社)で由緒が古く格式の高い古社である。
藩政時代は基肄郡上郷総社・明治6年郷社昭和3年県社・戦前は、基山村(町)の産土神社であった。
祭神は古来諸説があるが民俗学上の原初は基肄山山頂の玉々石を盤座として農業に恵みを与え、豊穣をもたらす、自然神・産霊神であると考えられる。貞享元年(1684)の「荒穂神社縁起」には、中央に荒穂大明神左一に下鴨大神、左二に八幡大神、右一に宝満大神、右二に春日大明神、右三に住吉大明神の六社としている。
創建は同縁起に人皇第37代孝徳天皇の御代(645〜54)基肄国造物部金連の後裔金村臣によるとされている。社殿は最初基山山頂にあったが、戦国の兵火にかかって転々とし、当地に造営されたのは貞享2年である。現社殿(流れ造り)の拝殿は文政2年(1819)神殿・中殿は安政5年(1858)の改建になる。神課は12人であった。
伝説の石
右 子宝石
この石に腰を掛け祈願すると子が授かると言ます
中 荒穂の神と高良の神の投合された石と伝えられ石の上部に指の跡形がついてゐます
荒穂の神の投げた石は高良の神の神殿下に有る言ます
左 荒穂の神の馬が基山の頂上より飛降りた石と伝えられ馬の蹄の跡形がついてゐます
この謂れが斎祭の起りと伝えられてゐます

社頭掲示板



荒穂神社

遺産にまつわる物語
 荒穂神社は特別史跡基肄城跡が鎮座する基山の南麓に基山を背にして立っている。平安時代に編纂された歴史書である「日本三大実録」貞観2(860)年に従五位上荒穂神社に正五位上の位を授けたと記され、また同じく平安時代中期に神社一覧として記された「延喜式神名帳」には小社として肥前の国に四社ある式内社の一つに数えられるなど、古くより記録に残る神社である。
建物の特徴
 神社参道から石階段を登ったところには、中央に「荒穂宮」の額が揚げられ、元禄2(1689)年建造の明神鳥居があり、神社の入り口であることを示している。その正面奥には装飾性豊かな本殿が位置し、安静2(1855)年建造とされる入母屋造りの拝殿、そして切妻造りの幣殿をはさんで、安静5(1858)年建造で三間社流造りの神殿がある。またこの本殿手前の境内脇には明治17(1884)年建造の二階建て切妻造りの参籠殿がある。この建物は接待場とも呼ばれ園芸などの舞台として利用されていた。さらに境内東側には本神社と関係の深い基山(きざん)からの水を引く水神池があり、以前は神事の際の禊が行われていたと伝えられている。
保存や活用の取組
 荒穂神社では年間をとおして様々な行事が催行されている。特に7月末ごろに行われる「夏越し祭り」、9月の秋分の日にに行われる「御神幸祭」では町内外からの多くの来訪者で賑わいを見せる。「夏越し祭り」では境内入口の鳥居に茅の輪を設置するとともに境内には参籠殿を舞台に四区民による様々な園芸が披露される。また「御神幸祭」では本神社を起点に2.5km離れた御仮殿(御旅所)への神幸行列があり、神社と御仮殿それぞれで、各集落で代々受け継がれてきた「災払」「鉦風流」「獅子舞」などの民俗芸能が披露される。この祭りには町民から親しみを込めて「ドン・キャン・キャン」と呼ばれ、町内に響き渡る太鼓の鉦の音は初秋の風物詩となっている。

佐賀県HP



荒穂神社

創建年代詳ならずと雖も、神名帳考証に、「荒穂神社。阿多都比売、大和國櫻実神社、実与倍音通、基肄郡、倭名鈔、基肄(木伊)、物部荒甲連乎、古事記云、阿多都比売、亦名木花佐久夜毘売、按荒與阿多音通、穂姫也」とあり、神社覈録には「荒穂は阿良保と訓むべし」と云ひて、祭神の御名を挙げず、宮浦村に在すと云へり、神砥志料に「荒穂神社、今宮浦村にあり、清和天皇貞観2年2月己丑、從五位上荒穂天神に正五位を授く、凡5月7日風鎮祭を本社の旧地基山に修め、旗を建て、吉凶をトふの式あり」と見ゆ、社伝によれば、往昔本社は基山の峯に在りて、結構甚壮麗を極めしが、後奈良天皇天文年間、大友氏の害にあひて、社殿悉く焼失し、神官某なるもの、僅に神体を護りて、今の地に来り、以て鎮祀したるものなり、太宰管内志に「延喜式に、肥前國基肄郡荒穂神社あり、三代実録に貞観2年2月28日、授從五位上荒保神正正位下」とあり、又或書に、肥前國基肄郡荒穂神社、祭五十猛神也ともありて、基肄郡宮浦村に在り、近郷の惣社にして大社なり、此社昔は北方山上に有しと云ふ、麓に移したるはいつの比にやありけん」と云へり、又地名辞書に「荒穂神杜、今基山村大字宮浦に在り、三代実録、肥前国荒穂神授位の事見え、延喜式、基肄郡に列す」とあるもの是なり、後此地宗氏の所領となりて、領内の宗廟として崇敬厚かりきといふ、明治6年10月郷社に列る、境内千余坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿、其他神輿殿等の建物を有す。

明治神社誌料



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