稲田神社
いなだじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】稲田神社 常陸国 新治郡鎮座
          (奥の院)稲田神社(奥の院)

   【現社名】稲田神社
   【住所】茨城県笠間市稲田763
       北緯36度22分6秒,東経140度12分22秒
   【祭神】奇稻田姫之命 (合祀)経津主命 菅原道真 大山咋命 大日霊貴命
   【例祭】11月17日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】治承3年(1179)5月『常陸総社造営注文』に稲田社とある
       弘安2年(1280)『常陸国作田惣勘文』に稲田社とある
       元亀・天正の頃、火災に罹つて退転
       慶長7年(1602)再興
       元禄4年(1691)社殿を造営
       元緑11年(1698)6月光圀日月・四神の幡等を奉納
       弘化2年(1845)3月火災焼失
       明治6年4月郷社
       同16年4月1日県社

   【関係氏族】新治国造
   【鎮座地】北西約300m距つた稲田山の中腹に、祭神垂跡の地と伝えられる本宮がある。

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・手水舎

   【境内社】八雲神社・脚摩乳神社・手摩乳神社・稲荷神社・秋葉神社・天満宮・山ノ神社

新治国造の奉齋した神社であつたかと思われる。
式に名神大と注せられているが、国史には本社に関する記事は全く見当らない。鎮座の由緒・年代については確かな所伝は存しない。。
創建は不詳。『稲田姫宮神社縁起』(江戸時代)によると、当地の邑長武持の家童が稲田好井の水を汲もうとすると、泉の傍らに女性が現れた。家童の知らせで武持が尋ねると「自分は奇稲田姫で当地の地主神である」と答え、姫の父母の宮・夫婦の宮を建て、好井の水で稲を作り祀るよう神託を下したという。当社の北西300メートルの稲田山中腹には本宮(奥の院)が鎮座するが、本宮の祠左手には巨石が突き出ており、この磐座が稲田姫の降臨地と伝わっている。


由緒

御由緒、御鎮座は今を去る1200有余年の昔新治国造が此の地方を治めた頃、創建されたものであります。御祭神奇稲田姫命は古事記にいう八岐の大蛇退治の御縁で、須盞鳴之尊と結ばれ御夫婦になられた、女の神様であります。なお神社には元禄8年(1695)水戸藩主徳川光圀公が奉納した四神旗が社宝としてのこされています。県指定文化財(昭和63年1月25日)。
御神徳、歴史豊かな吾国・加波・難台の三山を正面に見はるかす景勝の霊地に鎮座する稲田神社の御祭神は女神であらせられますので、母の大愛を備えられ、慈悲仁愛の徳高く願事は必ず聞き届けられるといわれます。特に縁結び、安産、身体健全、学業成就、眼病治癒、交通安全、商売繁昌、家内安全の祈願者が絶えません。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




稲田神社

延喜式内名神大社
御祭神奇稲田姫命
稲田神社略記

豊かな郷土
あたたかい人のこころ
すこやかなからだ
そして、
明るい生活をめざして
神のみ前に
つつましく掌をあわせ
わたしたちの
祈りをささげよう
宮司 田村正義
一、神社の名称
延喜式内名神大社 稲田神社
延喜式とは古い書物の名前で、朝廷(今の皇室)年中の儀式や用途、百官臨時の作法、諸官中の事務、及び諸国の恒式等を詳かに記したもので五十巻にものぼります。
醍醐天皇の時代に、藤原時平・藤原忠平らが中心となって、二十二年もかかって延長五年十二月(九二七年)にまつりごとの基本としてでき上った書物です。
昔は祭政一致といって、政治と祭は一体でありました。
この延喜式の神名帳に記載された神社を、式内社又は式社といい、更に社格を大社、中社、小社の三つにわけました。稲田神社は延喜式内名神大社で、延喜式神名帳という今から一千年以上も前の古い書物に登載されている、きわめて格式の高い神社であります。
二、御祭神
奇稲田姫命
天照大神の弟神、素盞鳴之尊がやまたのおろちを退治した縁で妻に迎えられた、奇稲田姫命をおまつりした由緒あるお宮が稲田神社であります。 本殿は総欅の流造りで、その規模や手のこんだ造りかたなど、名神大社といわれる風格を備えています。
また稲田神社を姫の宮と申し上げるように、女の神さまが単独でまつられるのは、全国でもめずらしいことであります。
三、御座所
茨城県笠間市稲田字宮山
稲田神社は、むかしの地名では常陸国新治郡稲田村宮山にまつられてあります。
常陸風土記という本によりますと、新治の郡とは、現在の笠間市・西茨城郡・真壁郡・筑波郡などにまたがる十二郷二百八ヶ村をよんだものです。今の神社のあるところは、むかしの綜合的な中心の場所で、多くの人びとの拝礼のまとであったようです。
稲田神社は、本宮を中心に東は笠間の石井、西は福原の関戸から中山・南は本戸南指原の一の鳥居、北は大郷戸の奥の宮、東西南北二里(八キロメートル) 四方にまたがり、神領地も十七町余(約十八ヘクタール)あったと伝えられています。
四、沿革
神社のうつりかわり
稲田神社は、続日本紀などには崇神天皇の御代四道将軍派遣のころ(約二千年前とおもわれる)すでにまつられてあったとしるされていますが、さだかではありません。思うに新治国造が此の地方をおさめた頃、稲田の地にまつられたのであろうと考えられます。
そして永禄年間(一五五九〜一五六九年)の頃兵火の厄にあって焼失してしまいました。その後慶長七年(一六〇二年)徳川家康の時代に、伊奈備前守忠次が検地のおり、磯猪之助家次という人が願主となり、稲田姫の御本社をはじめ、八雲神社・脚摩乳神社・手摩乳神社の四つのお宮を御造営されました。
ところが弘化二年(一八四五年)三月三日地元民家の失火にあい、類焼してしまいました。それから三年後嘉永元年(一八四八年)大工棟梁調吉により再建されたものが現在の社殿であります。
また建長の頃(一二四九〜一二五八年)笠間城主笠間時朝は、稲田神社をことのほか崇敬し、鎌倉歌壇の指導者僧仙覚や右大弁九条光俊らを招いて歌会を催したということが、新和歌集に書かれています。その時、右大弁光俊朝臣のよまれた歌がのこつています。
立春
千早振るこの八重垣も春たちぬ
ひのかはかみは氷とくらし
水戸城主徳川光圀(義公)も稲田神社に敬虔の情あつく、元禄七年(一六九四年)錦織の四神旗その他を寄進されております。
五、社宝
四神旗
四神旗は、長さ一二〇センチメートル、巾七二センチメートルの絹地に、青竜・朱雀・玄武・白虎の四神の図が織りこんであります。旗の右下には墨で「四神御旗敬奉納常州新治郡稲田神社元禄之歳源光圀粛具」と書かれています。光圀という名前だけは朱で書かれ義公の直筆だといわれています。
四神とは、天上の四方の守護神で東は青竜、南は朱雀、北は玄武、西は白虎といわれます。これは星宿を動物にみたてた中国古代の思想に由来し、墓室の壁面や棺の金具、鐘などの文様のほか、祭礼に用いたり、軍兵の隊列の四方に立てたりした旗です。
この四神旗については、元禄七年(一六九四年)水戸藩主徳川光圀が江戸出府のとき、稲田神社に参詣され、神主の田村善太夫知英に神社の実状をたずねられ、由緒ある古社の衰微のもようをなげかれました。そこで田村神主を江戸の水戸藩邸に同行させて、津田兵蔵信貞について神道を学ばせました。六十日余りかけて神道をおさめた田村善太夫知英が帰郷する時、光圀から稲田神社縁起一巻・神系一巻・神宝祭器図一巻・稲田姫社御造営図二枚・日月の旗と四神旗.並に祭祀料と奉納品を託し、天下泰平と将軍家の繁栄を祈願したのであります。
この四神旗は昭和四十八年(一九七三年)笠間市の文化財に指定されています。
六、祭礼
1.初祈祷  一月一日
むかしは御祭神稲田姫のみことは陰暦元旦より六日間、全国の神々を歴訪され、その間お留守になっていましたのでこれを俗におやすみになっているといわれ、したがって一月七日「おめざめ」と称し早暁より御祈祷を行っていましたが、現在は太陽暦の元旦に行われるようになりました。
年の始めにあたり、天神地砥をまつり、皇室の長久、五穀の豊穣、家庭の繁栄幸福をお願いするのが初祈祷です。
2節分祭   二月三日
節分とは気のうつりかわる時をいうもので、立春の前日冬の節にわかれて春の節にうつる意味です。現在では二月三日(うるう年は四日)の午后から夜にかけて敬神の年男相つどい、御本殿に拝礼してから桃の弓、葦の矢や豆を打って、悪鬼や病気災厄を追い払うならわしになっております。
このことは延喜式にも載っております。節分はまた追儺、おにやらい、豆まきなどともいわれます。
3.祈年祭   二月十九日
祈年祭は「としごいのみまつり」ともいいます。年とは稲のことをいい、即ち年々つくるところの五穀に、風雨や鳥虫の災厄のないように祈願するおまつりです。殊にわが国の稲は、天照大神がわが子孫の毎日の食物とせよとみことのりして伝えたもので、この大切な穀物を本年も豊作でありますようにと祈るのは当然といいましょう。
4祇園祭     七月三十日
砥園祭は八雲神社素盞鳴之尊(稲田姫の夫神)の祭礼であります。
神輿(おみこし)は前日の午後本宮前の假舎に出御、三十日早朝より正装の神官、紋付袴の氏子総代、身をきよめた白装束の若者がおみこしをにない、飯塚の熊野神社、大古山の香取神社、関戸の手名椎神社に渡御せられ、稲田全域を神風に潔めて還御します。
このおまつりは、不浄をのぞき悪疫を払うものでまた大抜の式ともいいます。
5例大祭    十一月十七日
例大祭は一年に一回、どこの神社でも行う祭典です。このおまつりは、神社と氏子の最も密接なつながりの深いもので、氏子たるものは誠意を捧げて神のみ心をおなぐさめ奉り、郷土や一家の繁栄発展をお祈りするものです。
また秋まつりともいい、新穀を神に供え、豊稔を感謝するおまつりでもあります。
七、伝説
神社にまつわる言いつたえ
1.やまたのおろち退治
高天が原から降られたすさのおのみことが、涸沼川のほとりをたどってくると箸が流れて来ました。みことは「この川上にはきっと人が住んでいるにちがいない。」とおもってさかのぼって行くと、少女を中に翁と嫗の泣く姿を見ました。わけをたずねますと翁は「私の名はあしなつちといい、妻の名はてなつちといい、娘の名はくしいなだひめと申します。私にはもとより八人の娘がありましたが、やまたのおろちが毎年やって来て一人ずつ食べてしまい、とうとう娘一人になってしまいました。ことしもまたやまたのおろちが来る時になったので悲しくて泣いています。」とうったえました。そこですさのおのみことは、八つのかめに酒を入れて待っていました。
やがてやまたのおろちがやって来て酒を飲み、酔いつぶれて眠ったところをすさのおのみことは十拳の劔をぬいて退治しました。その時尾の中から出て来たのが、あめのむらくもの劔(のちのくさなぎの劔)です。
このような縁で、すさのおのみことはくしいなだひめを妻に迎え、稲田の地に宮居をつくって住まわれました。
2好井の泉
稲田神社には樹令数百年の杉の御神木があり、そのむかいあわせに「百枝の椎の木」とよばれる大木がありました。この椎の大木の下に「好井」といって清水のこんこんと湧き出るところがあったのです。
むかし土.地の若者がこの水を汲もうとしたところ、椎の木のところに立つ美しい女の人の姿が水にうつりました。若者はおどろいて、たぶんこの女の人は貴いお方にちがいないと思い「あなたはどこからお出でになったのですか。」とたずねますと、女の人は「私はすさのおのみことの妃いなだひめです。長いこと此の稲田の地にとどまっていますが、どうかここに私の父母のほこらをつくり、私たち夫婦のお宮をつくり、そして好井の水で酒をつくり、私に捧げて下さい。」といいました。
そこで若者は家の人につげ村びとと相はかり、お宮を造営し、お酒をささげておなぐさめ申したということであります。
3茶の根松の葉
くしいなだひめが八頭八尾の大蛇(やまたのおろち)に追われた時、茶の根につまづき、松の葉で眼を痛められたという話が語りつがれています。したがって稲田神社では今もって茶をたてることを禁ぜられており、氏子の中には今でもやしきの中に茶や松を植えず、又茶を飲まない風習が残っています。
また稲田神社に願をかける時は、茶を断ってお詣りするのがならわしとなっています。
4衣手の常陸國
衣手とは、常陸国(昔の新治、筑波、茨城、那賀、久慈、多珂の六ケ国、今の茨城県)の枕詞です。"ころもでの"という五音を、ひたちということばの上につけ、ひたちの国を飾り語調をととのえる時に使います。
日本武尊がご東征のみぎり稲田の地を通られた時、好井の水があまりにも清く澄んでいるのにお目をとめられ、戦旅のおつかれをいやすために思わず清水をもてあそび、手を洗われました。そのときみことの衣の袖が水にひたりぬれてしまいました。その衣の袖が衣手となり、漬たすがひたちとなり、衣手のひたちの国というようになったのです。

由緒書



稲田神社奥宮の好井

むかし、むかし、上稲田の久保という所に、大きな椎の木がありました。
 椎の木は、みきを空高くのは゛し、四方に太い枝をはってしげっていたので「百枝の椎の木」とよばれていました。この椎の木の下に、わき水がありました。この地の人々は、良い水がわく泉なので「好井」とよんでいました。
 ある日、この近くに住んでいた若者が、いつものように水をくみに泉にやってきました。ところが水面をのぞいて見て、びっくりしました。そこには、それはそれは美しい女の人のすがたがうつっているではありませんか。おどろいた若者は、おおいそぎで、家のご主人に知らせに行きました。
 「ご主人さま、大変でございます。好井に見たこともない美しい女の人がいます。私を見てにっこり笑っていました。」と言いました。話を聞いた主人に、若者といしょに好井にやって来ました。
 主人が、泉をのぞくと、若者の言うとおり若くて美しい姫が水面にうかんで見えるでわありませんか。主人と若者は、おそるおそる上を見上げると、木にね美しい姫が腰をかけていました。おどろいた主人は、
 「あなたさまは、どなたさまですか。」
と、ていねいにたずねました。すると、
 「わたくしは、スサノオノミコトの妃のクシイナダヒメである。わたくしは、今、天から下りてきてここに住もうと思っている。願わくば、わたしの父母のテナズチ、アシナズチの祠と、わたしたち夫妻の宮を作り、好井の水で酒を作って供えてほしい。」
と、おおせられて、いつのまにかにかすがたはきえてしまったのです。
 主人と若者は、この話を村人に伝えました。そこで村人は、この地にクシイナダヒメとスサノオノミコトをまつる神社を建て、神田でとれた米で酒を作って供えました。
 今でもこの好井のある所には、稲田神社の奥宮がまつられています。また「好井」の泉から流れる水は、小さな三枚の田をうるおしています。ここに稲が植えられ、とり入れられた稲は、神前にそなえられたいるそうです。
 「稲田」という地名は、このクシイナダヒメをまつる神社があり、神に供える稲をつくる田があることからつけられたと言われています。

http://www.kasama-kasama-j.ed.jp/kasama-j/minwa/ue/minwa20.htm



稲田神社

延喜式内 名神大社 稲田神社
一、所在地 茨城県笠間市稲田字宮山
一、御祭神 奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
一、祭日 初祈祷 1月1日
 年の始めにあたり皇室の長久、五穀の豊穣、家庭の繁栄を祈念します。
節分祭 2月3日(閏年は4日)
 氏子ならびに敬神の年男相つどい豆を打って悪鬼や病気災厄を払い家内安全を祈ります。
祈年祭 2月19日
 「としごいのみまつり」ともいい稲をはじめ五穀に風雨や鳥虫の災厄のないように祈願します。
祇園祭 7月30日
 八雲神社素盞嗚之尊の祭礼で神輿は氏子総代供奉のもと白装束の若者にになわれて渡御不浄を除き悪疫を払い稲田全域を潔めます。
例大祭 11月17日
 新穀を供え豊年を感謝し神のみ心を御なぐさめ郷土や家庭の繁栄を祈ります。
一、御由緒
御鎮座は今を去る1200有余年の昔新治国造が比の地方を治めた項創建されたものであります、御祭神奇稲田姫命は古事記にいう八岐の大蛇退治の御縁で素盞鳴尊と結ばれ御夫婦になられた女の神様であります。なお神社には元緑8年(1695)水戸藩主徳川光圀公が奉納した四神旗が社宝として残されています。
県指定有形文化財 昭和63年1月25日
一、御神徳 歴史豊かな吾国、加波、難台の三山左正面に見はるかす景勝の霊地に鎮座する稲田神社の御祭神は女神であらせられますので母の大愛を備えられ慈悲仁愛の徳高く願事は必ず聞届けられるといわれます。特に縁結び安産身体健全学業成就眼病治癒交通安会商売繁昌家内安全の祈願者が絶えません。

社頭掲示板



稲田神社

百枝の椎の木の下に泉がありました。清らかな良い水が涌きでるので「好井」とよんで人々は水を汲みにきました。その処に稲田姫が現れ「我今降りて此処に居らんとす宜しく我父母の祠と我夫妻の宮を営み好井の水と三田の禾を以て酒飯を作り我に奉ぜよ」とおおせられたので,社殿を造り神霊を鎮斎しました。のちに字宮山に社殿を建てて遷宮しました。その後,火災により焼失し,嘉永元年(1848)に再建されたのが今の稲田神社です。 延喜式内名神大社に列します。

茨城県神社庁



稲田神社 名神大

稲田は伊奈多と訓べし○祭神奇稻田姫命(地名記、鎮座)○稻田村に在す、(同上)今茨城郡に属す、(鎮座)例祭月日、○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、常陸國稻田神社一座、

神社覈録



縣社 稻田神社

祭神 奇稲田姫命
配祀 布津主命 菅原道真 大山咋命 大日霊貴命
   不詳一座
創立年代詳ならす、蓋往古新治国造の祭りし所なり、国造は天穂日命の子、建比良鳥命より出で、出雲无邪志等の国造と同族なり、其遠祖の仕奉れる姫神を遷し奉るも其故なり、社伝に、往昔其家の家憧、稲田好井の水を汲んとして井の邊に至る、一少女あり、百枝樹下に立つ、家憧之を怪み、入りて主人に報ず、乃ち出て見る、容貌端麗、心に其の貴人なることを知り、延入て問て曰く、何れより来るやと、女対て曰く、吾は素盞鳴尊の妃稲田なり、此地の主たるや既に久し、汝等の祖亦嘗て吾に事ふ、吾今降て茲に居らんと欲す、汝等空しく吾父母の祠と、吾等夫妻の祠とを営み、好井の水を以て、酒飯を作り吾に奉ぜよと、是に於て宮殿を営みて其の霊を安じ、更に水田を供す、之を下稻田田供村と名つく、又武持と云ふ者をして祭事を奉ぜしむ。是れ実に今の田村氏の祖なり、古来俗に姫之宮とも称し、又稲田姫社、稻田神、姫宮神、井上神、握神、國主遠祖神とも称せり、延喜の制名神大社に列せらる、建長年間、字都宮時朝、笠間城に居るに及んで、此社管内に属するを以て厚く崇敬し、当時の歌人八人及子時景と共に、各和歌十首を詠じて当社に献じ、神前に於て講ぜしむ、往古は神領甚だ多く弘安年間神田十七町と、同勧文に見えしが、足利の季世悉く之を失ひ、剰さへ永禄元亀の頃、社殿兵火に罹り、社職田村氏一人、神輿を茅屋に安じ、緩に春秋の奠を薦むること三十余年、慶長7年に至り伊奈忠次本国を検地せる際、其の被管磯猪之介願主にて社殿を営みたり、寛文年中井上正長此地に封ぜらるるや徐地三石を寄進せらる、是より先、元禄11年徳川光圀江戸に上るの途次、笠間より当社に来り、其の衰頽を嘆じ、日月の韓及四神の旗を奉寄し、天下泰平將軍の延命を祈らる、時に除地四石四斗を奉寄せしと云ふ、明治6年4月香取神社外五社を合祀し、郷社に定めらる、又同16年4月縣社に昇絡す。
社殿は本殿、拝殿、境内は809坪余(官有地第一種)及近く編入せられし上地林五反五畝十三歩より成る。
新志云、今稲田の四宇の神殿は、東は稻田姫、是を本社とす、西は素戔鳴尊、又前の左は脚摩乳神、右は手摩乳神是なり、云々」とあり素戔鳴尊社以下は今は境内社となれり、

明治神社誌料



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