酒列磯前神社
さかつらいそさきじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】酒列磯前藥師菩薩神社 (名神大) 常陸国 那賀郡鎮座
          (旧地)酒列磯前神社【旧地】

   【現社名】酒列磯前神社
   【住所】茨城県ひたちなか市磯崎町 4607
       北緯36度22分56秒,東経140度37分24秒
   【祭神】少彦名命 大己貴命
   【例祭】8月25日 例祭
   【社格】名神大 旧国幣中社
   【由緒】斉衡3年鎮座
       天安元年(857)8月7日官社に列した『文徳実録』
       天安8「薬師菩薩明神」の号受ける
       建久2年(1191)4月源頼朝神馬奉献、社領寄進
       元弘2年(1332)佐竹貞義社殿を造営
       明応10年(1501)從二位
       徳川光圀が当社に詣でたときは神籬祭祀であつた
       元禄15年(1702)徳川綱條現社地に社殿を造営
       明治18年4月22日国幣中社

   【関係氏族】
   【鎮座地】創建以来此の地に鎮座
        古社地は、現社地の西方の海に望んだ場所(鳥居の辺り)

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 酒列磯前神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・神樂殿・神饌所・社務所

   【境内社】
   【境内図】 境内図

創祀の地は西方の海を臨む台地であったという。東南磯づたいの岩石群は南に約45度に傾斜して列なっているが、その内の一部のみ反対の北に傾いた箇所がある。その様相から「逆列(さかつら)」の地名が生まれたという。この岩石群を「清浄石」と呼んでいる。



酒列磯前神社

主祭神 少彦名命(恵美須さま)
配祀神 大名持命(大黒さま)
少彦名命は高皇産靈神の御子神にして医藥の術、酒造の術の祖神また海上安全大漁万足の海の神なり。
大名持命は大國主命とも稱し五穀豊穣、商賣繁昌の神にしてまた縁むすびの神なり。御二柱の神は共に力を合わせ國土開拓民生の安定を築き「神人和樂」福を授くる神にして古より広く庶民に親しまれ敬愛された。
抑、御祭神は古事記・日本書紀にも記録明らかにして、平安初期(約1100年前)「文徳天皇実録」によれば天安元年(約1130年前)に「官社」となり、同年八月には「藥師菩薩明神」の尊号、延喜の制には「明神大社」に列せらる。
天平文化を誇る奈良の平城宮との交流も盛んなりし事等、史実に顕著にして著名なるお社として全國的な尊崇をあつめり。
更に菅原道真公、本居宣長、平田篤胤等の国学者が学問の神として崇敬せり。
本神社の創祀の地は現在地の西方海に臨みし台地に鎮座されており、建久2年(約900年前)源頼朝は神馬丗三頭神領地寄進社殿修繕を行へり。応永29年(約600年前)水戸城主初代江戸道房より次いで弘治元年(約430年前)忠道本殿其の他改造せり天正8年(約405年前)六代重道に至る数百年間 江戸氏が修繕に当れり。元和2年(約370年前)守護佐竹貞義神田寄進社殿修理せり。元禄15年(約300年前)水戸藩主二代徳川光圀公の遺志を継承せる三代綱條公旧社地より現在地にさだめ境内の整備社殿大改築をなし、御遷宮奉安の儀を行へり。
現社殿の建築は元禄時の彫刻を軒廻り部分を再使用、昭和九年国費により改築せるものなり。この時畏くも天皇陛下より金一封御下賜あらせられたり。
明治18年より終戦まで毎年三回の大祭に皇室国家より幣帛料が供進されたり。
洋上より昇る朝日に映ゆる神域約二万坪、参道本殿背後に生殖せる暖帯林は誠に人心を厳粛の極に至らしめ自然林に指定されり、東南方磯づたいに展開せる白亜紀の岩石群は古より神聖視され清浄石と呼ばれておれり。
北方遠く連なる海辺は白砂青松にして絶景なり「東洋のナポリ」と稱するに値せり。
萬葉時代より昭和初期まで旧制四十八ヶ村の各鎮守の神輿がそれゞの氏子により「ヤンサコラサ」の掛声も勇ましく当神社に神幸され祭典と同時に渚二里八丁を疾駆せる勇壮厳粛なる競馬の伝統御神事は往時を偲ぶものあり。
恰も本年は当神社が「國幣中社」に列格せし満百年の意義深き年なり。来る廿一世紀国際化時代へ飛躍の秋、近隣一帯が北関東地域発展の重要な拠点となる流通港、常陸海辺公園等々「海と緑と人間との」調和した雄大にして豊な活力のある海洋文化都市建設構想を目指す輝かしき曙光は御祭神が國土開拓殖産の御神徳灼かなる具現哉と一人感慨深きもの也。

社頭石碑




酒列磯前神社の自然林

市指定天然記念物。
酒列磯前神は、磯崎町にあり、祭神には少彦名命と大己貴命の2神を祀っている。
この神様は、神代のむかし、力を合わせて国土の経営に尽され、ことに少彦名命は医薬の法や呪いの法を開いて、病難に苦しむ人民を救済したといわれている。
斉衡3年(856)の12月、神が大洗磯前の海岸に出現したので、大洗とこの酒列磯前に社を営んだと伝えられている。翌天安元年(857)には官社となり、10月には薬師菩薩の号を奉られ、また延喜の制(907)には名神大社に列した。
建久2年(1155)4月、源頼朝が筑波山社参のとき、茂木四郎を遣して、神馬30匹を奉り、さらに120町を神領に寄せられたという。
その後、佐竹氏、江戸氏も崇敬し、貞和(1350)のころは六反田六蔵寺が神宮寺をつとめた。
元禄15年(1712)、徳川綱条は先君光圀の遺志をついで、神殿を造り遷官の式を挙げた。明治18年には、国幣中社に列せられている。
また同社は乳母神としても、近郷の信仰を集めている。
拝殿にかかげられた、りすとぶどうの彫刻は名工左甚五郎の作と伝えられる見事な作品である。裏山一帯には古墳が累々と連なり、神社の森は、椿の花が美しい。

http://www.citydo.com/prf/ibaraki/area_kita/kenbun/kanko/hitachinaka001.html



酒列磯前神社

『文徳実録』によると、文徳天皇の斉衡3年(856年)12月29日に常陸国鹿島郡大洗磯前に御祭神大己貴命・少彦名命が御降臨になり、塩焼き(塩を精製する者)の一人に神がかりして、「我は大奈母知、少比古奈命なり。昔此の国を造り訖へて、去りて東海に往きけり。今民を済わんが為、亦帰り来たれり」と託宣され、当社「酒列磯前神社」が創建され、また現在の東茨城郡大洗町には「大洗磯前神社」が祀られました。
翌天安元年8月には官社に列せられ、更に10月には「酒列磯前薬師菩薩明神」の神号を賜りました。延喜の制では名神大社に明治18年4月には国幣中社に「大洗磯前神社」と共に列されました。
御社殿はかつては現在の第一鳥居付近(ひたちなか市史跡−「比観亭跡」)に鎮座していましたが、水戸藩2代藩主徳川光圀公が由緒深い名社の荒廃を嘆き元禄年間御造営の計を起し、3代綱條公が現在地に遷座再興されました。現在の社殿は国費を持って昭和12年に改築竣工し、拝殿に施された「リスとブドウ」の彫刻は日光東照宮御造営後の左甚五郎の作と伝わっています。

公式HP



酒列磯前神社

常陸国上言。鹿嶋郡大洗磯前有神新降。初郡民有煮海為塩者。夜半望海。光耀属天。明日有両怪石。見在水次。高各尺許。体於神造。非人間石。塩翁私異之去。後一日。亦有廿餘小石。在向石左右。似若侍坐。彩色非常。或形像沙門。唯無耳目。時神憑人云。我是大奈母知少比古奈命也。昔造此国訖。去徃東海。今為済民。更亦来帰。

文徳天皇実録 斉衡3年12月戊戌条



酒列磯前神社

さかつらいそざきじんじゃ 茨城県那珂湊市磯崎町。旧国幣中社(現、別表神社)。祭神は少彦名命を主神に、犬己貴命を配祀する。『延喜式』に「酒列磯前薬師菩薩神社」とみえるのが当社である。一般に、酒列明神、または乳母神さま等と言われている。祭神や由緒等は大洗磯前と密接不離の関係にある。文徳天皇の天安元年(857)8月に官社となり、同10月に薬師菩薩名神の号を授けられる。延喜の制で名神大社となる。祈年の国幣に預かる。大洗磯前神社がそうであるように、一時衰微したが、元禄年間(1685−1704)に徳川光圀が再興し、社頭を整備した。明治18年(1885)に国幣中社に列せられる。医薬・産業繁栄の守り神と仰がれ、また、安産育児の神「乳母神様」と崇敬されている。祭祀は太々神楽の5月5日、例祭8月25日。3月7日には、ヤンサマチという競馬祭もある。鎌倉時代には盛んであったが、一時衰微し、徳川光圀が再興した。神社周辺は古墳群があり有名である。
元禄15年(1702)造営の社殿を昭和9年に起工、同23年にわたり大改修された。向拝をはじめ精巧な彫刻は当時のものである。当社の祭神に関して、中世から一神説・二神説が流布されているが、明治18年、(1885)の国幣中社列格達書により少彦名命一神となっている。

神社辞典



酒列磯前神社御由緒記

主祭神 少彦名命(恵美須さま)
配紀神 大名持命(大黒さま)
少彦名命は高皇産霊神の御子神にして医薬の術、酒造の術の祖神また海上安全大漁万足の海の神なり。
大名持命は大国主命とも称し五穀豊穣、商売繁盛の神にしてまた縁結びの神なり、御二柱の神は共に力を合わせ国土開拓民生の安定を築き「神人和楽」福を授くる神にして古より広く庶民に親しまれ敬愛された。
抑、御祭神は古事記日本書紀にも記録明らかにして、平安朝初期(約1100年前)「文徳天皇実録」によれば天安元年(約1150年前)に「官社」となり、同年8月には「薬師菩薩明神」の尊号、延喜の制には「明神大社」に烈せらる。
天平文化を誇る奈良の平城宮との交流も盛んなりし事等、史実に顕著にして著名なるお社として全国的な尊崇をあつめり。
更に菅原道真公、本居宣長、平田篤胤等の国学者が学問の神として崇敬せり。
本神社の創の地は現在地の西方海に臨みし台地に鎮座されておれり、建久2年(約900年前)源頼朝は神馬三十二頭神領地寄進社殿修繕を行へり、応永29年(約600年前)水戸城主初代江戸道房より次いで弘治元年(約450年前)忠道本殿其他改造せり天正8年(約405年前)6代重道に至る数百年間江戸氏が修繕に当れり。
元和2年(約370年前)守護佐竹貞義神田寄進社殿修理せり、元禄15年(約300年前)水戸藩主2代徳川光圀公の遺志を継承せる3代綱條公旧社地より現在地にさだめ境内の整備社殿大修築をなし、御遷宮奉安の儀を行へり。
現社殿の建築は元禄時の彫刻と軒廻り部分を再使用、昭和9年国費により改築せるものなり。この時畏くも天皇陛下より金一封御下賜あらせられたり、明治18年より終戦まで毎年三回の大祭に皇室並国家より幣帛料が供進されたり、洋上より昇る朝日に映ゆる神域約万坪参道本殿背後に生殖せる暖帯林は誠に人心を厳粛の極に至らしめ自然林に指定されり、東南方磯づたいに展開せる白亜紀の岩石群は古より神聖視され清浄石と呼ばれておれり。 北方遠く連なる海辺は白砂青松にして絶景なり「東洋のナポリ」と称するに値せり萬葉時代より昭和初期まで旧制四十八ケ村の各鎮守の神輿がそれぞれの氏子により「ヤンサコラサ」の掛け声も勇ましく当神社に神幸され祭典と同時に渚二里八丁を疾駆せる勇壮厳粛なる競馬の伝統御神事は往時を偲ぶものあり。
恰も本年は当神社が「國幣中社」に列格せし満百年の意義深き年なり、来る21世紀国際化時代へ飛躍の秋近隣一帯が北関東地域発展の重要な拠点となる流通港、常陸海辺公園等々「海と緑と人間との」調和した雄大にして豊かな活力のある海洋文化都市建設構想を目指す輝かしき曙光は御祭神が国土開拓殖産の御神徳灼かなる具現哉と一人感慨深きもの也。

社頭石碑



酒烈礒前藥師菩薩神社 名神大

酒烈磯前は佐加豆良伊曾佐岐、藥師は久須志と訓べし、菩薩は音読也、○祭神少彦名命(頭注)〇平磯村に在す、(地名記)例祭月日、○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、常陸國酒烈磯前藥師菩薩神社一座、
常陸國誌に、今亡云々、寛文3年秋、平磯邑人発古墳得、古棺、棺内有種々品物、塚外四面数百歩頃、皆埋陶器状如墻趾、老父相傅礒前明神虚云、」或説に、黄門光圀卿再興、御社建立給と云り、」伴信友云、按に、寛文に発きたると云へる平磯村なる云々は、古塚にはあらで、神寳を蔵めたる石櫃なるべし、有種々品物と云る中に、石像も坐しけむを、心つかでや取放らしけん、神威の衰へ玉へる事恐こしこし、さて其は酒列神社の旧地なりしを、乱世に止事を得ずして、しかなしゝ事のありけむ、陶器を埋めたる状墻趾の如しと云るは、酒瓶を列ねたるにて、旧神社の巡りにありたるなるべし、少彦名神は、酒を醸し玉へる古實云々の如くなれば、殊更当社に由緒あり、酒列と云るも、かの酒瓶を列ね祀れるに依れる地名なるべし、と云へるは然るべし、
官社 菩薩
文徳実録、天安元年8月辛未、在常陸國酒列礒前神預官社、同年10月己卯、在常陸國酒列礒前神號藥師菩薩名神、

神社覈録



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